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眩しさに手をかざし

「えっ。いやあの、それは……!」 「隠さなくてもいいですよ。愛する恋人にケーキの手土産、結構じゃありませんか。本当に仲がいいんですね」 「そっ……そんな」  それだけ言うと、篠宮は言葉を失って口をつぐんだ。甘い声でキスをねだり、快感に打ち震えながら恋人にすがりついた昨夜のことが、なぜかこのタイミングで思い出される。  恥ずかしさを誤魔化そうとして、篠宮は無意識の内に辺りをきょろきょろと見回した。何人かいたはずの客は、いつのまにか居なくなっている。橘が『彼氏』などという単語を使ったのは、近くに誰も居ないことを見越していたためらしい。 「篠宮さん。もし食事がまだでしたら、ご一緒にル・プレジールで昼食をとりませんか」  唐突に話を区切り、橘は快活な声をあげて篠宮を昼食に誘った。 「プレジール……」  鸚鵡返しに呟いてから、篠宮はようやく思い出した。ル・プレジール。先日橘と食事をした、あのピアノのあるカフェだ。 「お誘いは嬉しいのですが、出かける前に軽く食事をしてきたので、それほど空腹では……」 「では、コーヒーだけでも。あの店は軽食も充実してますから、小腹が空いた時には丁度良いですよ」 「ですが……席を外すわけにはいかないでしょう」 「大丈夫ですよ。盗まれる物はありませんし、無人でも問題ありません。万が一のために、監視カメラも付いていますからね」  やんわりと断わったものの、橘は諦めなかった。これが嫌いな相手ならば、しつこいと腹を立てるところだ。だが、橘は物腰も優しくて品があるためか、なぜか憎めない。彼のような人物から誘われたのでは、素っ気なくあしらうこともできなかった。 「よろしければ、先日お聞かせできなかった、例の曲も披露しますよ。『奇蹟のような出逢い』……とても美しくて、きっとあなたと彼氏さんにはぴったりの曲だと思います。いかがですか?」  また橘のピアノを聴けるのかと思うと、篠宮の心が少し傾いた。先日の演奏は本当に素晴らしかった。橘が修道院にお百度を踏んで、なんとか手に入れたという門外不出のその曲を、ぜひとも聴いてみたい。 「せっかく来ていただいたのですから、もう少しお話を伺いたくて……お時間がもったいないのは分かりますが、独身の寂しい無職の中年男に、あなたとお話しする栄誉を与えてやってはいただけませんか」  わざと哀れっぽい声を出したかと思うと、橘は自分でも可笑しくなったのか、自らの腹を押さえて笑いをこらえた。 「独身で無職で中年……」  半ば呆れながら、篠宮はその言葉を繰り返した。眼の前の男は、女性に不自由しそうなところなどひとつもなく、身なりも整って若々しい。物は言いようだ。こんな男が三重苦だと言って自らを卑下するなど、滑稽以外の何物でもない。 「仕方ないですね……分かりました。もう少しお付き合いしますよ」  しばらく考えた後、篠宮は苦笑と共に返事をした。どうせ家に帰っても暇なだけだ。だったらここで橘と話していたほうが、結城のいない寂しさを紛らわすことができる。 「本当ですか! ありがとうございます」  篠宮の答えを聞いて、橘が顔を輝かせた。  自分のような男と話して何が楽しいのか。一瞬そう思ったが、どうせ単なる暇つぶしだろうと篠宮は考え直した。良家のお坊ちゃんが、たまたま出会った庶民の男を話し相手に選ぶ。そこに深い意味などない。 「では、行きましょう」  晴れやかな笑みを見せ、橘はドアを開けた。  明るい太陽の光が眼を射る。眩しさに手をかざした瞬間、なぜか結城のことを思い出した。  いや、思い出したというのは当たらないかもしれない。忘れたことなどなかった。自分の部下として、皆の前で結城が紹介されたあの日から、ただの片時も彼を忘れたことはなかった。出逢ったその日にプロポーズされ、さんざん迷惑をかけられ、どんな時も彼のことがいつも心に引っ掛かっていた。星のように、月のように、太陽のように。いつもそこにある事が当たり前になっていた。  きっと。初めて逢ったあの日から、ずっと心惹かれていた。そう自覚した時、篠宮は生まれて初めて、そんな一途な自分をほんの少し愛しいと感じた。

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