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心ここに在らず
「心ここに在らず、といった様子ですね」
いきなり声をかけられ、篠宮は驚いて正面を向いた。橘が微かに苦笑いを浮かべ、置いてきぼりにされたような顔でこちらを見ている。
「ああ……申し訳ありません。急に飲んだから、少し酔ったのかもしれませんね」
キールの一杯や二杯、水を飲んだのと大して変わりはなかったが、篠宮は体裁を取り繕うためにあえてそう口にした。
「篠宮さんは、嘘をつくのがあまりお上手ではないようですね。顔を見れば分かりますよ。恋人のことを考えていたんでしょう」
橘が心の奥を見透かすように微笑んだ。
「……済みません。急に頭の中に思い浮かんだもので。ぼうっとしてしまいました」
篠宮は素直に謝った。友人と差し向かいで話をしているのに、他のことを考えて上の空でいるなんて、相手に対してあまりにも失礼だ。
「……篠宮さんは、そのかたを本当に愛していらっしゃるんですね」
「そう言われると気恥ずかしいのですが、でも……もし私が生涯の伴侶を選ぶとしたら、彼以外には居ないと思っています」
「生涯の伴侶……ですか」
鸚鵡返しに呟いたかと思うと、橘は急にナイフとフォークを皿の上に置いた。
皿にはまだ、レモンバターのかかったムニエルが半分以上残ったままになっている。気のせいだろうか、少しばかり様子がおかしい。
「……どうかされましたか」
なにか気を悪くするようなことを言っただろうか。篠宮は今の会話を思い出してみた。他人の惚気話など聞きたくないという人も多いだろうが、橘は他人の恋の話を聞くのは好きだと言っていた。自分は、尋ねられたことに正直に答えただけだ。取り立てて問題になるような発言はしていない。
「篠宮さん……あの」
「はい」
「なんというかその……実はですね」
言いにくそうに何度かためらった後、橘は決心したように顔を上げた。
「以前、友人になってくださいとお願いしたんですが……その友達申請に、ちょっとばかり不都合が生じてしまいました」
「不都合……?」
篠宮は呆然とした声で問い返した。自分は決して明るい性格とは言えないし、たしかに友人にして面白いような男ではない。だが、やっぱり友達になるのはやめましょうなどと、面と向かって言われるほど人格的に問題があるとも思えない。
「不都合というのは、どういうことなのでしょうか」
篠宮が尋ねると、橘は瞳に決意の色を浮かべ、衝撃的な一言を口にした。
「済みません篠宮さん。どうやら私は……あなたのことを好きになってしまったようなんです」
「……っ……!」
驚愕のあまり言葉を発することもできず、篠宮は口を半開きにしたまま橘の眼を見つめ返した。
好きだから友人にはなれない。もし橘がそう言っているのだとしたら、この場合の『好き』は、もちろん恋愛的な意味で好きだということになる。
「申し訳ありません、いきなりこんな事を言って……驚きましたよね」
混乱する篠宮に向かって頭を下げ、橘は謝罪の言葉を口にした。その眼は真剣で、嘘偽りの色は欠片もない。
「そんな……ご冗談でしょう。たしかに、二人で食事したいと熱心に誘ってくださったのはあなたのほうですが……それはあくまでも、友情から出た言葉だと信じていました。そんな下心があったようには思えません。今日の個展だって、恋人と一緒に来てほしいとおっしゃっていたではありませんか」
もしも橘が自分に対して邪な気持ちを抱いていたのなら、誰も伴わず一人きりで来てほしいと言うはずだ。こんな事を聞いて何が楽しいのかと思うような、結城との甘ったるい恋の話にだって、彼は嬉々として耳を傾けていたではないか。
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