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エリーゼのために
断じて恋愛感情などではないが、篠宮は橘の柔らかな物腰や品のある立ち居振る舞いに、憧れにも似た魅力を感じていた。冷たく断るのは気の毒だし、だからといって引き受けることもできない。
「……考えさせてください」
どう伝えるべきかと迷った末、篠宮は曖昧に言葉を濁した。相手が恋愛感情を抱いていると知った以上、何事もなかったように付き合い続けることはできない。絵のモデルになるなんてもってのほかだ。一室に籠もり、二人きりで何時間も過ごす……その気があるから来たのだろうと言われたら、反論できない。
きょう帰ったら、先日彼から教えてもらった電話番号やメールアドレスはすべて削除してしまおう。篠宮は密かにそう決意した。橘には申し訳ないが、こんな友人ごっこを続けたところで自分にとって益があるとは思えない。結城から妙な誤解を受けないためには、多少乱暴な手を使ってでも、橘との繋がりを断つしかなかった。
「二度と会いたくないから断ると、はっきり言ってくださって構わなかったのに……あなたは優しいですね、篠宮さん」
諦めきった声で寂しそうに呟き、橘は近くを通るギャルソンに目配せをした。
「橘さま。何か御用でしょうか」
真新しい制服の、まだ見習いを卒業したばかりらしい年若い青年が、気配を察してすぐにテーブルの横へ歩み寄ってきた。
「ピアノは空いていますか」
「ええ。橘さまにでしたらいつ弾いていただいても良いと、支配人が申しておりました」
片手に盆を持ったまま、若い店員は緊張した面持ちでそう言った。オーナーの知り合いを前にして心細いのか、肩が僅かに震えている。いったい何を言いつけられるのかと、気が気ではないのだろう。
給仕人の緊張をよそに、橘はあごに手を当てて思案顔になった。
「もし差し支えなければ、軽く弾かせていただこうと思っているのですが……実はきょう弾く予定だった曲が、諸事情で演奏できなくなってしまったんです。代わりの曲は何がいいでしょう。あなたは、何か好きな曲はありますか」
「えっ! わっ、私ですかっ」
いきなり話の矛先を向けられ、青年は驚いて飛び上がった。ただでさえ白かった顔色が真っ青になっている。
「ぴっ、ピアノの曲といっても、私がタイトルを知っている曲といえば『エリーゼのために』くらいで……もっ申し訳ありません、不勉強で」
「エリーゼのために、ですか。いいですね。最初の一曲はそれにしましょう」
悠然と微笑み、橘は篠宮のほうにちらりと眼を向けた。
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