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良い思い出

「ああ、それと。こちらの方は残念ながら他に用事がお有りで、もうそろそろお帰りになるんです。このかたが席を立ったら、お見送りのほうをよろしくお願いします」 「は、はい! かしこまりました」  給仕が逃げるように去っていくと、橘は再び篠宮のほうに向き直った。 「篠宮さん。これ以上お付き合いいただくには及びません。不愉快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。どうぞ遠慮なさらず、お帰りになってください。これでお別れですね。短い間でしたが、あなたとお話しできたことは、私にとって良い思い出になりました。もっと早く出会っていればと思いますが、こればかりは運命ですね」  橘が諦めきった顔で別れの言葉を述べる。  なんとなくうら寂しい気持ちになり、篠宮はどうにかして関係を修復できないものかと考えた。いったい、どうしてこんな事になってしまったのか。ほんの十分前まで、自分たちは楽しく談笑していたのだ。初めて友人と呼べる人ができたのに、こんなにあっさりと親交が断たれてしまうなんて、とても現実にある事とは思えない。 「橘さん。あなたほどのかたが私を好きだなんて、やはり何かの間違いだと思います。もう一度、帰ってよく考え直してはいただけませんか。あなたなら、他に相応しい人がいくらでもいるでしょう」 「いえ……今にして思えば、初めて会った時から心惹かれていたんですよ。間違いなんかじゃありません。その証拠に、私は……」  いちど言葉を切り、橘は決意したように再び口を開いた。 「私は、あなたを抱きたいと思っています。可能なら、今すぐにでも。どうです、一時の気の迷いなどではないとお分かりいただけましたか」  橘らしからぬ下品で低俗な物言いに、篠宮は驚愕を隠せなかった。あの彼がこんなことを言うなんて、よほど追い詰められているのだろう。あまりにも率直すぎる言葉で伝えられたせいだろうか。不思議と、彼を責める気にはならなかった。  男性の恋人がいる身で、他の男の所にのこのこ一人でやって来るなど、どこかに隙があると思われても仕方ない。結城以外の男に好かれることなどないだろうと勝手に思いこみ、警戒を解いてしまった自分の責任だ。 「済みません……橘さん。私のぶんの会計は、これで済ませてください」  財布から札を取り出し、篠宮は橘のグラスの横に置いた。包みもせずテーブルの上に叩きつけるなんて無作法極まりないが、こうなってしまっては致し方ない。 「篠宮さん。この店はたしかに他所と較べると少し高級ではありますが、こんなにいただくほど値は張りませんよ」 「いえ、良いんです……先週のこともありますし」 「あれは楽譜を拾っていただいたお礼……いえ、今さらそんな事を言うのはやめておきましょうか。分かりました、篠宮さん。このお金は素直に受け取っておきます。借りを作ったまま別れるのは、あなたのプライドが許さないでしょうから」  寂しそうな微笑を浮かべ、橘はピアノを弾くために席を立った。 「篠宮さん。もしあなたが今日、恋人と一緒に来てくださっていたら……私はこんな絶望的な告白をしようなんて思わなかったでしょう。あのピアノの前に座り、愛し合う恋人たちに相応しい曲を弾いて、お二人を祝福したに違いありません」 「あ……」  引き留めるように片手を上げたものの、なんの言葉もかけられないまま、篠宮は壇上に向かう橘を見送った。  艶々と黒光りする背もたれに手を掛け、橘が慣れた仕草で椅子に腰掛ける。美しくどこか物悲しさを感じさせる、聞き慣れた旋律が流れ始めた。  残っていたキールを飲み干し、篠宮は立ち上がった。あれはたしか、小学校に入ったばかりの頃だろうか。ピアノを習っているという同級生の女の子が、得意げにこの曲を弾いてくれたことがある。ずいぶん練習したのだろうと感心はしたが、それ以上の感慨は覚えなかった。  恋の苦しみを感じさせる、悩ましげな調べが胸に染み透る。エリーゼのために。これほど切なく語りかけるような演奏を聴くのは初めてだと、篠宮は後ろ髪を引かれる思いでカフェを後にした。

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