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複雑な感情

 次の日。篠宮は気持ちを落ち着けるためいつもより早く出勤し、自動販売機のある休憩所へ向かった。  紙コップに入ったコーヒーを持ち、手前のベンチに腰掛ける。ひとくち飲むと、心地好い香りと苦味でたちまちののうちに頭がすっきりした。  窓の外には出勤途中だと思われる老若男女が、のんびりと、あるいはせかせかした足取りで植え込みの隣を歩いているのが見える。なんの変哲もない、いつもの日常の始まりだ。  そうだ。何も変わらない、普段と同じ日常だ。篠宮は心の中でそう自分に言い聞かせた。  橘との出会いとその顛末については、結城には言わないつもりでいた。別に隠しておこうと思ったわけではない。すでに終わったことをわざわざ伝えて、恋人を不愉快にすることもないだろうと思ったからだ。  橘はたしかに魅力的な人物だった。しかし結城とどちらが大事かと言われれば、答えは端(はな)から決まっている。初めてできた友人をあんな理由で失うのは残念だったが、この世には、同性になどまったく興味がないという人のほうが遥かに多い。間違っても自分に対して恋心など抱かない、単なる友人として付き合ってくれる人間が、他にいくらでもいるはずだ。別に橘である必要性はない。 「……おはよう、篠宮さん」  窓の外を見ていた篠宮に、唐突に背後から声をかける人物がいた。近くに人がいないせいか、二人きりでいる時のような親しみのこもった挨拶だ。 「ああ、おは……」  振り向きかけた篠宮は、驚いて眼を見開いた。  背後に立っていたのは予想していたとおり、自分の恋人である結城に間違いない。スーツをきっちりと着こなし、片手に黒い書類鞄を持ち、いつものように人懐っこい笑みを浮かべている。だがその中に、今までの彼とは決定的に違う部分がひとつだけあった。 「結城。その髪……」  驚愕のあまり、篠宮は喉の奥から掠れた声を洩らした。  結城のトレードマークだったともいえる、頰にかかるほどの前髪は、短く切られ整髪料で整えてある。後ろ髪は刈り上げられ、篠宮がいつも指を絡ませていた、あの緩くパーマのかかったような癖毛はどこにも見当たらなかった。数ある男性のヘアスタイルの中でも、ショートと呼ばれる部類の髪型だ。 「ああ、これ? ほら、俺も今日から晴れて営業になるじゃない。心機一転、気分入れ替えようと思ってさ。どう、似合ってる?」 「あ……ああ」  不意を突かれて、篠宮は曖昧に返事をした。元々が整った顔なのだから、似合うに決まっている。だが褒めるより先に篠宮の胸に去来したのは、寂しさを伴った、今まで味わったことのない複雑な感情だった。

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