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ただの強がり

 あの長い前髪は、営業には不向きではないかと思ったこともある。清潔感を前面に押し出したこの髪型のほうが、ビジネスには相応しいだろう。それでも、馴染み深かったあのふわふわと揺れる髪が無くなってしまったのは、篠宮にとって少しばかり残念なことだった。 「篠宮さんの元を離れるのは寂しいけど……でも俺、篠宮さんに相応しい男になりたいんだ。まあ待っててよ。篠宮さんが生涯のパートナーとして自慢できるような、めちゃめちゃカッコいい最高の男になるつもりだから!」  片手を胸に当て、結城が雄々しく胸を張る。自信たっぷりといった様子だ。 「ずいぶんと頼もしい発言だな」  普段と変わらない笑顔を見て、篠宮はほっと安堵した。たかが髪型が変わっただけで、そこまで感傷的になるなんて馬鹿げている。男性にとっては髪を切ることなんて、爪を切るのと大して変わらない。今ここにいるのは明るくて元気な、誰よりも自分を想ってくれるいつもの彼だ。 「仕事は別々になるかもしれないけど、席は隣のままだからさ。俺、本当に真面目に、社長になれるよう頑張るよ」 「まだそんな事を言ってるのか。まあ、せいぜい頑張ってくれ。期待しないで待ってるからな」  苦笑と共に立ち上がり、篠宮は使い終わった紙コップをごみ箱に捨てた。  昼食の入った袋と書類鞄を片手に持ち、結城と並んで営業部へ向かう。入り口をくぐった途端、中にいた佐々木が振り向いた。 「おっ、結城。髪型変えたんだ? 今日は時間ギリギリじゃないじゃん。そっかー、おまえも今日から営業だもんな。大変だろうけど頑張れよ。何か困ったことがあったら、みんなで手助けするからさ」  月曜の朝から機嫌の良さそうな顔をした佐々木は、昇格の辞令が出た後輩にさっそく声をかけた。 「はい! ありがとうございます」  元気よく返事をして席につき、結城がパソコンの電源を入れる。始業時間になると臨時の朝礼が行われ、結城が見習いを卒業して、今日から営業になるということが全体に伝えられた。  朝礼が終わり再び席に戻ると、篠宮は隣に座る結城をそっと盗み見た。襟足を刈り込んですっきりと耳を出した髪型は、似合うとは思うもののまだ違和感がある。  いっぽう結城のほうは、篠宮がそんな事を考えているとも知らずに、真面目な顔で机に向かっていた。朝一番の仕事である、メールのチェックをしているのだろう。その真剣な横顔に、働く男の色気を感じて少しときめいてしまう。  時計の針が九時半を指した。 「……篠宮さん。じゃ、行ってきますね」  そう言って、おもむろに結城が立ち上がった。  どこへ行くんだ。思わず質問してしまいそうになり、篠宮は慌ててくちびるを引き結んだ。結城はもう見習いではない。自分で予定を立て、自分の判断で動く。上司の陰に隠れて、あれこれと細かい指図を受けながら働く必要はないのだ。  あんなに懐いている結城が手元から離れたら、きっと君は寂しい思いをするだろう。以前に牧村係長補佐が、そのような意味の話をしていたことを篠宮は思い出した。  あの時たしか自分は、とんでもない、肩の荷が下りてせいせいすると答えた。だが今になって思う。あれはただの強がりだった。  本当は寂しい。とてつもなく寂しい。大事に育てた雛鳥が自分の元から巣立っていくような、手塩にかけた娘が嫁に行ってしまう時のような、なんとも言えず物寂しい気持ちだった。 「……ん? 篠宮さん、どうかした?」 「い、いや……なんでもない」  自らに言い聞かせるように、篠宮は首を振った。今は寂しくても、いずれ慣れてこれが当たり前になるだろう。こんなところで花嫁の父の気持ちを味わうことになるとは思っていなかった。 「初日だし、今日は挨拶回りに力入れようと思うんだ。十一時半くらいにいったん帰ってくるから。ね、篠宮さん。お昼は一緒に食べよ?」 「ああ。気をつけて行ってきてくれ」  無理やり口角を上げて微笑を作り、篠宮は複雑な思いで結城を送り出した。

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