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甘えたい飼い犬

 結城が営業として独り立ちしてから、早くも一週間が経った。  寂しい気持ちはまだ残るものの、篠宮は絶対に公私混同だけはするまいと固く心に誓っていた。せっかく部下が意欲的に仕事に取り組んでいるのだから、個人的な我がままなど言わず、素直に新しい門出を祝福してやるべきだろう。恋人が寂しい思いをしていると知られたら、これから頑張ろうとしている結城の気持ちに水を差すことになる。  聞くところによると、結城は得意先へのアドバイスや新商品の提案などもそつなくこなしているようだ。周りからは『さすが篠宮主任の指導を受けただけはある』と言われている。その褒め言葉だけが、篠宮にとってほんの少しの慰めだった。 「あーもう、一週間長かった! やっと篠宮さんとイチャイチャできるぅー、えへへー」  部屋に入るなり、結城は篠宮に抱きついて頰をすり寄せた。 「こら、離せ。酔ってるのか」 「酔ってませんー。えへへー、篠宮さん。美味しいご飯ありがとー」  ほんのりと頰を赤くした結城が、目尻を下げて幸せそうな表情を見せる。  週末の夜はいつも二人で過ごすことになっている。夕食は結城の手料理をご馳走になることが多いが、今日は見習いからの卒業祝いということで、篠宮がそこそこ格式のあるイタリアンの店に連れていった。  食事をしながら、ビールを二杯にワインを一杯。大した量ではない。ほろ酔い気分といったところだろう。 「いまコーヒー淹れるから。ソファーに座って待ってて」  台所の椅子に鞄を置きながら、結城が眼で居間のほうを指し示す。お言葉に甘えてソファーに腰かけ、なんとなくテレビを見ながら待っていると、すぐに香り高いコーヒーを湛えたマグカップが運ばれてきた。 「お待たせー」  コーヒーをテーブルに置くやいなや、結城は、他に場所はあるだろうと文句を言いたくなるほど、ぴったりと篠宮に寄り添って腰を下ろした。結城のことを大型犬のようだとは常日頃から思っていたが、今日はアルコールが入っているせいか、いつもに増して甘えたい飼い犬モードである。 「いたっ……待て、痛い」  刈り上げた後頭部の髪が肌を突き刺し、篠宮は慌てて結城の身体を押し戻した。 「あ、ごめんごめん。つい、前と同じつもりで」  結城が申し訳なさそうに肩をすくめる。その仕草が飼い主に怒られた犬そのもので、篠宮は思わず笑ってしまった。 「明日はデートするって約束だったよね。篠宮さん、どこ行きたい?」 「ああ……そうだな」  篠宮がはっきりしない返事をすると、結城は子供のように口をとがらせた。

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