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叶わぬ恋
パソコンのキーボードを押す、かたかたという微かな音が聞こえる。
電話の応対をする声。コピー機の作動する音。椅子の軋む音。資料をまとめて揃える音。仕事に関わる様々な音が混じり合った、活気あふれる空間。
ああ、ここはいつもの営業部だ。そう篠宮は思った。
明るく大きな窓の前には、天野係長の席がある。そろそろ陽も翳ってきたためか、彼女はブラインドを下ろさず、柔らかな陽射しを背に受けながら席についていた。
その向かいに立っているのは、昨年入社したばかりの結城奏翔だ。何かの書類なのだろうか、すらりとした長い指に白い封筒の束を持っている。時おり笑みを交えながら、結城は机を挟んで係長と話をしていた。
少し幼さを感じさせる、子供のように無邪気な笑顔が眩しい。明るく曇りなく、誰にでも分け隔てなく優しいその姿に、自分は彼が入社した時からずっと恋をしていた。もちろん、叶わぬ恋だということは分かっている。ただの一方的な想い……実ることのない片想いだ。
『へえー、いよいよなのね』
『ええ、そうなんです』
係長の言葉に答えながら、結城が嬉しそうな表情を見せる。その整った横顔を眺め、篠宮は不意に、この会社の代表である冴島信幸社長を思い出した。
この会社の代表取締役社長である冴島氏は、年齢こそ五十代後半だが、なかなかの美男子だ。背は高く弁舌さわやかで、大企業の社長という職に相応しく、多くの人を魅了するカリスマ性を備えている。
篠宮は再び結城に眼を向けた。よく見ると、通った鼻筋もやや肉厚なくちびるも、すっきりとした顎のラインも、すべてが不自然なほどよく似ている。まるで親子のようだと思ってから、篠宮は慌ててその考えを心の中から追い払った。結城の家は、ごくごく平凡な一般家庭だ。社長との間に血縁関係などあるはずがない。
『……それでさ、篠宮くん。会議での発表の件なんだけど。先月は俺だったから、今月は篠宮くんにお願いしていいかな?』
いきなり横から話しかけられ、篠宮は我に返った。そうだ、今は牧村係長補佐と、次の会議の資料について話をしていたのだ。
『どうしたの? ぼうっとして。珍しいね。熱でもある?』
『い、いえ……大丈夫です。済みません』
慌てて頭を下げ、篠宮は表情を取り繕った。職場の後輩の、しかも同性である結城の姿に見惚れていたからだなんて、たとえ口が裂けても言えるわけがない。
『お話中すみませーん。ちょっといいですか?』
篠宮が打ち合わせを続けようとしたその矢先。すぐそばから当の結城の声がして、篠宮は飛び上がった。
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