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自分だけの秘密

『えーと、牧村さんに篠宮主任……と。はい、どうぞ。招待状です』  手許の束から二通の封筒を抜き取り、結城はそれを篠宮たちに差し出した。温かみのある白い洋紙でできた封筒は見るからに上質で、隅には美しい鳩の浮き出し模様が付いている。 『招待状……?』  篠宮が訝しげな声を出すと、結城は眼を細めて向日葵の花のように笑った。 『あ、篠宮主任にはまだ言ってませんでしたね。俺、結婚するんです』  結婚。その一言に、ぎゅっと心臓を握り潰される思いがする。もちろん、彼ほどの男に恋人が居ないはずはない。分かってはいても、こうして結婚という形でその存在をはっきり知らされるのは、篠宮にとってやはりショックな事だった。 『俺もまだ二十四だし、結婚なんてちょっと早いかなとは思ったんですけどね。彼女が、早く子供が欲しいって言うもんだから』 『おっと結城くん、女の子のせいにするのは良くないなあ。結城くんも同じ気持ちだったから、結婚に踏み切ったんでしょ? 子供は何人つくる予定?』  愛妻家で有名な牧村係長補佐が、眼を細めて結城をからかう。満更でもない様子で、結城は愛想良く返事をした。 『えー、そうですねえ。やっぱり三人は欲しいですよね。一人は女の子がいいな』 『結城くんの娘さんだったら、きっと眼も眩むような美人になるんじゃない? 変な虫が付かないように、今から対策考えといたほうがいいよ。あはは』  子供談義で盛り上がっている二人を見て、篠宮はいたたまれない気持ちになった。子供が出来るということはつまり、男女の然るべき密接な関わりを経るということだ。  切ない思いで、篠宮は眼の前にいる結城の姿をじっと見つめた。このくちびるが他の誰かに愛していると言い、この手が、きめ細かく滑らかな女の肌を優しく愛撫するのだ。  氷のように冷ややかな炎が、静かに胸を焦がしていくのを篠宮は感じた。嫉妬ではない。もっと暗く望みのない、諦めにも似た思いだ。 『ちょっと照れくさいですけど、結婚したら今まで以上に、仕事にも本腰入れて頑張らなくちゃいけませんね。俺も牧村さんを見習って、いつまでも仲の良い、あったかい家庭にしたいと思います』  密かに想いを寄せている相手から、自分ではない誰かとの、希望に満ちた未来の話を聞かされる。結城本人の預かり知らぬこととはいえ、叶わぬ恋に身を焦がす者にとって、それはあまりにも残酷な仕打ちだった。 『佐々木さんといい俺といい、篠宮主任、後輩にご祝儀取られっ放しじゃないですか。篠宮主任も早く結婚したほうがいいですよ。居ないんですか? いい人』 『……ああ』  篠宮が言葉少なに答えると、結城はよほど驚いたのか素っ頓狂な声を出した。 『ええーっ? ほんとですか? 篠宮主任だったら、選り取り見取りのはずでしょう。どうして彼女つくらないんですか? あ、もしかして、特定の一人には決めない主義とか?』  ……それは、私が好きなのは君だからだ。絶対に口にはできないその台詞を、静かに心の中だけで呟く。  くちびるを噛み締め、篠宮は胸の中で溜め息をついた。この想いを打ち明ける日は永遠に来ないだろう。未来永劫、墓の下まで持っていかなければいけない、自分だけの秘密だ。 『ちょっとちょっと! 結城くん。嬉しくて浮かれちゃうのは解るけど、先輩がたのお仕事の邪魔をしちゃダメよ』  篠宮が困っているのを見かねたのか、天野係長が笑いながら、机越しに声をかけてたしなめる。 『はあい。済みません』  ぺろりと舌を出し、結城は次は誰に招待状を渡そうかと、眼を輝かせながら他の机に向かっていった。 『じゃ、篠宮くん。さっきの資料の件よろしくね。また何かあったら声かけてよ』  ひらひらと手を振りながら、牧村もどこかへ去っていく。その後には、明けない夜のように冷たく絶望的な想いを抱えたままの、篠宮ただ一人だけが取り残された。

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