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納得できる理由

 結城が自分に飽きて、他の誰かの所へ行ってしまうのではないか。そう思った事もある。だが結城が毎日のように愛していると言い続け、一心に愛情を注いでくれたためだろうか。今ではもう、その懸念はすっかり篠宮の頭の中から消え去っていた。  篠宮はくちびるを噛み締めた。自分が恐れているのは、自らの血筋が絶えることでも、彼が浮気をすることでもない。だがその真の理由を、正直に打ち明けるわけにはいかなかった。それを口にしてしまったら、きっと結城は自分の存在を重荷に感じ始める。 「君の……ご家族に会う決心がつかないんだ」  咄嗟に、篠宮はもっともらしい理由をひねり出した。男女の恋人同士でさえ、交際相手の両親に初めて挨拶する時は並々ならぬ緊張を伴う。それが男性同士となれば、なおさらだろう。しかもその挨拶をしなければならない相手は、自分の勤める会社の社長なのだ。  事が事だけに、社長から了承を得られる自信がない。つまり、それ故に結婚はできない……(はた)から聞いても、充分に納得できる理由のはずだ。 「えー。大丈夫だよ。篠宮さん、美人だし可愛いし頭いいし、誰が見たって文句のつけようが無いじゃん。別に社長だからって身構えることないよ。社員の前では偉そうにしてるかもしれないけど、家じゃただのオヤジだよ?」 「いや、そうは言っても……そういう訳にはいかないだろう」 「そんなに固く考える必要ないって。まあ親父も最初はちょっとびっくりするかもしれないけど、当たって砕けろって言葉もあるからさ」 「砕けたくないから言ってるんだ、馬鹿」  篠宮が不機嫌な声で言い放つと、結城は仕方ないなというように笑いながら肩をすくめた。諦めたわけではないが、状況を見て一時的に退却する気になったらしい。 「そっか……解った。篠宮さんがそう言うなら、俺、我慢して待つことにする。篠宮さんが、俺の親に挨拶してもいいと思うその日まで、辛抱強く待つよ」  ひざまずいた姿勢から立ち上がり、結城は篠宮の隣に腰かけた。眼下には、夕暮れの光を受けて輝く水面が見える。 「見て! 海が綺麗だよ」  弾んだ声を上げ、結城が水平線を指差した。  声もなく、篠宮は夕靄に煙る天と地の境目を見つめた。恋人とデートをして、楽しい一日の締めくくりに、美しい景色の見える観覧車で二人きりの時間を楽しむ。おそらく世間の大多数の恋人たちが、幸せだと思う瞬間だろう。  言うまでもなく、自分もこのひと時に幸福を感じてはいる。だが幸せだと思えば思うほど、それに反して暗雲のように不吉な思いが胸の奥から湧き上がってくるのを、篠宮はどうしても抑える事ができなかった。

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