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無くてはならぬ存在
ある日突然。この幸せはなんの前触れもなく、唐突に無くなってしまうかもしれない。先ほど結城には言えなかった、篠宮が結婚をためらう本当の理由はそこにあった。
彼と結婚して、今よりもさらに深い絆で結ばれる。そうなったら、自分はきっとこの上ない幸せを感じるだろう。だがそれは同時に、彼を失った時の苦しみも深まるということを意味していた。
自らの膝に置かれた結城の手を、篠宮は無意識のうちにしっかりと握り締めた。彼を失ったら、自分はきっと死ぬよりも酷い苦しみを味わうだろう。その時のことを考えると、恐ろしくてたまらなかった。
海風を受けたためだろうか。篠宮たちの乗ったゴンドラが、がたん、と大きく揺れた。
「あっ」
「大丈夫?」
腕を伸ばし、結城がすぐに篠宮の身体を支える。ごく自然に現れたその仕草が、彼が眼の前の恋人を本当に愛し、護りたいと思っている何よりの証拠だった。
彼と出逢った頃の、誰に対しても胸の内を見せず、頑なだった自分のことを篠宮は思い出した。あの冷たく乾ききった心に、結城は惜しみなく愛を注ぎ、人間らしい豊かな感情を与えてくれた。今では結城の存在は、篠宮にとって無くてはならぬものになっている。
……無くてはならぬ存在。それがもたらすものは、必ずしも幸福だけではなかった。
恐ろしい想像が堂々めぐりのように何度も胸をよぎり、篠宮は身震いした。結果的に大した怪我ではなかったから良かったようなものの、あの交通事故で結城に万一のことがあったら、自分はきっと正気ではいられなかっただろう。
うつむきかけた篠宮の眼に、遥か下界の景色が飛び込んできた。人の姿などもはや判別することもできず、建物の屋根さえ米粒のようだ。おそらく自分たちは今、地上から百メートル近く離れているに違いない。
もし、このゴンドラが落ちて、共にこの世を去ることができたら。それは自分にとって幸福な最期といえるのではないだろうか。
一瞬そう考えてしまってから、篠宮は慌ててその思いを頭の中から追い払った。愛する彼の身体が地面に叩きつけられ、想像を絶するような痛みと苦しみを味わう。それは篠宮には耐えられないことだった。
「結城……」
「ん? 何?」
篠宮の呼びかけに、結城が小首を傾げて応える。少し色素の薄い、夕陽を受けて明るく輝く瞳と視線が合った。
篠宮は奥歯をぎゅっと食い縛った。愛しさが胸にあふれ、止まらなくなる。想いのほとばしるままに、篠宮は滅多に言うことのない愛の言葉を口にした。
「……好きだ」
「俺もだよ」
結城が即座に答える。その迷いのない返事がこの上なく嬉しくもあり、耐えがたい苦痛の源でもあった。
「ね、今日は篠宮さんの部屋に泊まらせてよ。ここからだと、篠宮さんのマンションのほうが近いでしょ。なんか最近ハプニング続きで、外食とか簡単なもので済ませることが続いたからさ。今日の晩御飯は俺が作ってあげる。何がいい?」
恋人から愛の言葉を聞いたためか、結城が満足そうな顔でこれからの予定について話しだす。二人の乗った観覧車はいつのまにか頂点を過ぎ、地上に降り立つ時が刻一刻と近づいていた。
結城の顔をまじまじと見つめてから、篠宮は同じように笑みを返した。
もともと少し垂れ目気味な結城は、笑うと余計に目尻が下がって、人懐っこい子犬のような表情になる。この笑顔が好きだと篠宮は思った。どんなに心が沈んで暗い淵に落ちても、結城のこの明るい笑顔は、いつも自分に救いを与えてくれる。
「そうだな……昼がハンバーグだったから、夜は少しさっぱりした物がいい」
「あ。じゃあ、秋刀魚の塩焼きはどう? わかめの味噌汁に、山芋の梅おかか和え……それに、ほうれん草のおひたし辺りで」
「いいじゃないか」
「じゃ、それで決まり! 帰りにスーパーに寄っていこうよ」
盗むように篠宮の頰にキスをしてから、結城が何食わぬ顔で向かいの席に戻る。二人が地上に降りる頃には、夕闇が西の空を微かに色濃く染め始めていた。
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