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小舟のように

 薄闇の中で、篠宮は横になったまま枕に頰を押しつけた。  つい先程まで恋人を受け入れていた場所には、まだ熱い火照りが残っている。奥の粘膜が、中に注がれた欲望を逃すまいとして、事が終わった今も淫らに蠢いているのが感じ取れた。  背後にいる結城の穏やかな息遣いを感じながら、篠宮はそっと睫毛を伏せた。  恋人の口から優しい愛の言葉を聞き、柔らかなベッドの上で存分に愛され、お互いの想いを確かめ合う。以前の篠宮なら、幸福な想いで満たされたまま、すぐに眠ってしまっていただろう。  結城に聞こえないよう溜め息をつき、篠宮は布団を肩まで引っ張り上げた。疲れているのになぜか眠れないのは、ここのところ漠然と感じていた不安が、解決しようのない悩みだと気づいてしまったからだ。  人の命は無限ではない。そんな事はもちろん、とうの昔から知っていた。父の葬儀の時も涙は流さなかったし、自らの命でさえも、大して惜しいと思ったことはなかった。  他の事ならともかく、人の死に関してだけは、運命に抗っても仕方ない。そんな風に達観しているつもりだった。あの事件のあった日……結城が交通事故に遭った、あの日までは。  この身体が子を宿すことさえできたら、自分はこんなに悩む必要もなかったのだろうか。ふと、そんな事を考えた。子供ができれば子育てに追われ、配偶者の事ばかりを考えてはいられなくなる。たとえ愛する人を失ったとしても、彼との子供という忘れ形見が、少しは自分の心に慰めと生きる勇気を与えてくれるに違いない。  しかし、それは叶わないことだ。絶望的な思いが、再び篠宮の心に黒くわだかまった。  篠宮は視線を動かした。どう見ても自分の部屋にはそぐわない、棚の上に置かれた大きなぬいぐるみと眼が合う。結城が気に入っただけあって、丸々とした体も短い脚も、すべてが可愛らしいペンギンのぬいぐるみだ。  愛嬌のあるその顔を見ていると、なぜか泣きたい気持ちになった。  今日のデートは本当に楽しかった。一か月前の篠宮なら、結城と過ごすこの一日に、幸せ以外のものを感じることなど無かっただろう。だが今の彼の心は、風にあおられる小舟のように、頼りなく揺れて浮き沈みを繰り返していた。  二人の愛の巣を想い出でいっぱいにしたいと、結城は言った。だが自分たちは死ぬまでにあと何回、こうして想い出を紡ぐことができるのだろう。そのチャンスはこの先何百回も、何千回もあるかもしれない。しかし一方で、それは今日が最後かもしれないのだ。

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