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残り火

 もし、結城と知り合う前に橘に出会っていたら。不意に、そんな考えが頭に浮かんだ。  橘は、自分のことを好きだと言っていた。年上で、落ち着いて知性的。彼ならすべての条件が合う。そのうえ誠実で思いやりがあって、何よりも謙虚だ。  相手が彼だったら、きっと自分はこんなに思い詰めることもなかっただろう。友情の延長のような、波風などひとつも立たない、穏やかで優しい関係を二人で築いていけたに違いない。  橘と二人きりの時間を過ごし、彼が教えてくれる芸術の知識に興味深く耳を傾け、仕事で疲れた時はあの美しいピアノの音色で癒してもらう。それは世界にこの人ひとりしか居ないと思う、運命を感じるような激しい恋ではない。だが、愛というもののひとつの形であることは間違いないだろう。 「あの、篠宮さん……どっか調子悪い?」  背後から唐突に声をかけられ、篠宮はぎょっとして背中を震わせた。  少し冷えた肩口に、結城の温かいくちびるがそっと触れる。もう寝ているものと思っていたが、情事の余韻に浸っていただけのようだ。 「べっ、別に……どこも悪くない」 「そう? いつもは中きゅんきゅんさせながら抱きついて甘えるのに、今夜はなんだかノリが悪いような気がしたから」 「だ、抱きついてっ、て……!」 「だってそうでしょ?」  からかいながら、結城が布団の中でぴたりと身を寄せる。裸の胸の当たる感触が、腰の奥に残った燠火をかき立てた。 「なんか、喘ぎ声が普段より控えめだったし、イキかたも浅かった気がする。いつもはイキそうになると、まず奥がきゅーって締まってさ。根元から中に引き込むように、全体が絡みついてくるんだよね。その時の声がまた色っぽくてさー。必死に耐えてるんだけど、もう気持ち良すぎて我慢できないって感じ? たまんないよねー。で、奥の壁が先っぽにちゅっちゅって吸いついて、中にいっぱい射精してくださいっておねだり……」 「ばっ、馬鹿! それ以上言わなくていい」  自分の中がどんな風に動いているかを詳細に説明され、篠宮は羞恥のあまり顔をそむけた。 「……一日歩き回ったから少し疲れたが、それだけだ。晩飯も美味しかったし……やはり、この季節の秋刀魚は格別だな」 「それならいいけど。体調が良くないのに無理させちゃったかなって、心配したんだ」  背中から腕を回し、結城が篠宮の腹部を軽く撫でる。その奥で恋人の欲望を受け止めたことを思い出し、篠宮は顔を赤らめた。  自分ではいつもと変わらず、恥ずかしいほど乱れてしまったように思う。だが、結城はこういうことになると異様に勘が鋭い。悩みを抱えて鬱々としている恋人の様子が、どこか不自然に見えたのだろう。  それでも、この悩みは決して結城に打ち明けるべきではない。密かな決意と共に、篠宮は拳を固く握り締めた。  よぼよぼの年寄りだというならともかく、結城はまだ若く健康で、自分で自分の身を守ることもできる。営業の仕事はまだ始まったばかり、得意先からの覚えもめでたく前途洋々だ。  こんな時に彼が死ぬ心配をしているなんて、縁起でもない。結城が聞いたらさぞかし気を悪くするだろう。それとも、何を馬鹿なことをと笑い飛ばすだろうか。真剣に悩んでいるのに鼻で笑われたりしたら、余計にこちらが落ち込んでしまう。やはり、何も言わずにいるのが無難だ。 「調子が悪いわけじゃないんだったら……ね、篠宮さん。もう一回……いい?」  甘い声で誘い、結城が耳許に優しくキスをする。身体の奥の残り火が、油を注いだように一気に燃え上がった。 「ああ……何回でも来い」  寝転がったまま振り向いて、篠宮は結城の肩を抱き寄せた。 「篠宮さんも欲しかったの? 可愛い……いいよ、何回でもあげる」  ふたつの唇がお互いに吸い寄せられるように近づき、何度も重なり合う。心の底から安心しきって、篠宮は温かい腕の中に身を任せた。  結城と橘。今さら較べるまでもなく、自分が心から愛しいと思うのは、結城以外の人では有り得ない。こんな情の深い恋人と一緒に過ごしながら、他の男のことを考えていたなんて、我ながら見下げ果てた話だ。  もし自分の恋人が橘だったらと、ほんの少し想像してみる。たったそれだけのことで、浮気をしてしまったかのような罪悪感を感じて、篠宮は結城に心の中で詫びた。今夜は少しばかりサービスしなければなるまい。 「篠宮さん……愛してる」  優しい愛の囁きが、耳から入りこんで全身に沁み渡っていく。まだ濡れた秘所にそっと指を這わされると、他の男のことなどあっという間に頭の中から消え去っていった。

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