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無明の闇

 霧雨に煙るフロントガラスの向こうに、赤いテールランプがいくつも光って流れている。  舗装された道路を走る微かな振動を感じながら、篠宮は後部座席に腰掛けていた。運転しているのは、職場の後輩の山口だ。  助手席には、その同期である佐々木がいる。ちょっとお調子者で、いつも何かと騒がしい彼が、今は一言も喋らず黙って肩を震わせていた。  篠宮の隣には、グレーの地味なスーツを着た天野係長が座っている。血が出るのではと思うほど強くくちびるを噛み締め、彼女は眼にハンカチを押し当てていた。ぞっとするほど青ざめたくちびるから、細く掠れた呟きが洩れる。 『信じられない。まだ二十四だったのに……!』  二十四。その数字を聞いて、篠宮は虚ろな瞳を上げた。  結城が二十四歳になったのは、八月のことだった。その誕生日プレゼントとして、自分は彼と旅行をした。二人で愛を誓い、ずっと一緒にいると約束し、天国にいるように幸せな時を過ごした。あれからまだ二か月も経っていない。つい先々月の話だ。 『……着きました』  重く沈痛な山口の声と共に、篠宮たちの乗った車が駐車場らしき場所に停まった。  少し離れた所に、これといって特徴のない、田舎の公会堂のような建物が見える。その軒先には、ぼんやりと光を放つ提灯が吊るしてあった。  入り口で何人かの男女が、お互いに頭を下げあいながら挨拶を交わしている。おそらく自分たちと同じく、通夜に訪れた人々だろう。  空は暗い。雨のせいか、月も星もない闇夜だ。だがいま篠宮の心を埋め尽くしているのは、それよりも遥かに深い、永遠に救われない無明の闇だった。 『行きましょうか。もう、受付も始まってるみたいですし』  低い声で呟き、佐々木が自らのシートベルトを外す。佐々木は先日妻が懐妊し、経過も順調だということで有頂天になっていたはずだ。そんな彼からは想像もつかない重苦しい声を聞き、篠宮はさらなる絶望が胸を冷たく引き裂くのを感じた。 『篠宮主任。降りましょう』  振り返った佐々木が、篠宮の眼を見て心配そうに声をかける。  返事はない。他の三人が降りても、篠宮は放心したまま車の中に(とど)まっていた。 『ねえ、篠宮くん。篠宮くんも辛いでしょうけど、最後にお顔を見てあげて。今は悲しくても、後になってきっと、きちんとお別れできて良かったと思う日が来るわ』  傘をさした天野係長が、車の外から声をかけてくる。次に口を開いたのは山口だった。 『結城が交通事故に遭うなんて……本当に突然のことで、俺たちも信じられない思いです。篠宮主任が教育係としてあいつに眼をかけていたことも、俺たちはよく知ってます。ショックなのは分かりますが……ここはどうか気を強く持って、最後にあいつに挨拶してやっていただけませんか』 『篠宮主任、結城は、本当に篠宮主任のことが好きだったんです。あいつだって、きっと篠宮主任に会いたがってると思います』  山口の言葉に続いて、佐々木が泣きながら口添えをする。それを聞く篠宮の頰は、風に吹きさらされた水晶のように冷たく乾いていた。

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