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お安い御用
「君の通夜に行く夢だった……真っ暗で、雨が降っていて」
嗚咽をこらえ、篠宮は必死で言葉を絞り出した。いつもの理路整然とした話ぶりとはかけ離れた、滅茶苦茶な説明だ。それでもどうにか夢の内容について伝え終わると、結城は眉を寄せて困ったように微笑んだ。
「もう、ひどいなあ篠宮さん。勝手に殺さないでよ。あんなに可愛がってあげたのに、まだ足りなかったの? こんなに汗かいて……このままじゃ風邪ひいちゃうよ?」
枕元にたたんであったタオルを手に取り、結城は篠宮の身体を拭き始めた。情事の後始末のためにと、多めに用意してあったタオルだ。微かに染みこませた結城の香水の香りを感じると、ようやく普段の冷静さが戻ってきた。
「まったくもう。篠宮さんを置いて死ぬなんて、夢の中の俺、何やってんだよ……そんなことになったら、世界中の王侯貴族が一斉に篠宮さんに求婚し始めて、戦争になっちゃうでしょ? 世界平和のためにも、俺はずっと篠宮さんと一緒にいて、篠宮さんを護らなきゃいけないのに」
何やら訳の分からない文句を言いながら、結城が篠宮の身体を丁寧に拭いていく。それが終わると、結城はすっかり眼が覚めてしまった様子でベッドの上に胡座 をかいた。
「今、夜中の三時だけど。どうする? 身体冷えちゃったから、お風呂に入る? 気を取り直して一杯飲もうか? それともコンビニにでも行く? ちょっと外を散歩したら、気分転換になると思うよ」
明るい声でそう尋ね、結城が篠宮の気を引き立てようとする。
篠宮は少しのあいだ考えこんだ。休みはもう一日あるし、彼の言うとおり、夜の散歩で憂さを晴らすというのもひとつの手ではある。
だが、結城にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。最終的に篠宮はそう結論を下した。いくら若いとはいえ、デートで一日歩き回ったのだから、彼にはきちんと身体を休めてもらいたい。自分のことなら、そんな風に気を遣ってもらわなくても大丈夫だ。あんな夢、もういちど眠りさえすれば、朝には細かいことなどすっかり忘れているだろう。
「いや……今夜はこのまま寝よう。起こしてしまって済まなかった。今はその、だっ……」
「だ?」
消え入りそうな言葉尻を捉えて、結城が怪訝な顔をする。意を決して、篠宮は再び口を開いた。ほんの数時間前まで、自分たちはもっと人に言えないようなことをしていたのだ。今さら恥ずかしがっても仕方ない。
「……抱き締めてくれ。安心できるように」
言ってしまった後で、やはり恥ずかしくなって視線を逸らす。一瞬目を丸くしたかと思うと、結城はなんだそんな事かとばかりに優しく微笑した。
「お安い御用」
右腕を伸ばして肩を抱き寄せ、結城はもう片方の手で篠宮の頭をぽんぽんと撫でた。
「だいぶ汗かいたと思うし、少し水分摂ってから寝たほうがいいよ。ホットミルクか何か作ってあげる」
「あ……ああ。頼む」
「ちょっと待っててね」
ベッドから降りた結城が、裸の上にガウンだけを羽織って台所へ向かっていく。
やがて彼が運んできたのは、温かいミルクに杏仁のリキュールを加えた物だった。色から察するにリキュールは香りづけ程度のようだが、アーモンドのような香りが心地好く、たしかに安眠できそうだ。
「飲み終わったら一緒に寝よ? 大事に大事に抱っこして、もう変な夢なんて見ないようにしてあげる」
篠宮の頰を撫でながら、結城が柔らかな笑みを見せる。不思議な男だと、篠宮は改めて彼という人間について考えた。時々ひどく子供っぽいかと思えば、こんな風に優しく包みこんでくれる時もある。ひとつだけ確かなのは、そのどれもに嫌味がなく、すべての面が自分を魅了してやまないという事実だ。
「美味いな」
温かなミルクに口を付け、篠宮はひとこと感想を述べた。微かな甘みと香りが、強張 っていた身体をゆっくりと解きほぐしてくれる。
「でしょ? お酒はほんの少ししか入れてないけど、香りがいいよね」
「君は味の匙加減が上手だな。料理でも飲み物でも、君が作ってくれた物はどれも美味しい」
「そりゃもう、愛する恋人のためだからね! 篠宮さんのためだったら、カクテルでもお茶でも料理でも、なんでも頑張って用意するよ。だから俺と……あっ」
何かを言いかけてやめるように、結城は急に声を詰まらせた。
「君と……なんなんだ」
「いやあのっ、何でもないよ、あはは」
「そんな風に言われると、余計に気になるじゃないか」
篠宮がさらに問い詰めると、結城は上目遣いで申し訳なさそうな表情を見せた。
「えっと、その……いつもみたいに、結婚してって言いそうになっちゃって。でも俺、待つって決めたから! 篠宮さんがその気になるまでは、我慢しなきゃね」
結城の返事を聞いて、篠宮は黙りこんだ。正直なところ、結城のあのしつこい求婚の言葉を聞けなくなるのは少し寂しい。だが、だからといってそのままという訳にもいかないだろう。結婚する気もないのに、プロポーズだけさせて喜ぶなんて悪趣味だ。
心の底に矛盾した思いを抱えながら、篠宮は最後の一口を飲み干した。ほんのりと漂う杏仁の香りが、甘く眠気を誘った。
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