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因果なもの
楽しい事だけを考えてなんとか心を浮き立たせようとするものの、そこに恋人が居ないとなると今ひとつ気持ちが盛り上がらない。だが、今の結城にそばに居てほしいと頼むのは無理な話だ。ここで我がままを言っても仕方ない。
慎ましい昼食をお茶で流しこみ、篠宮は携帯電話を取り出した。
近くに人が居ないことを確認してから、保存していた写真のファイルをそっと開く。カメラに真っ直ぐ視線を合わせ、人懐っこい笑みを浮かべる結城の写真が眼に飛びこんできた。
だいぶ前の事だったが、結城が『恋人の写真の一枚くらい持っててよ』と言って、自撮りして無理やり送りつけてきた物だ。その時はなんて自己顕示欲の強い奴なのだろうと呆れたが、こうして逢えない日が続いてみると、今になってしみじみと彼の心遣いをありがたく感じる。たかが写真の一枚でも、心の慰めにはなるものだ。
長毛種の大型犬を思わせる、緩くウェーブのかかった前髪が懐かしい。結城の特徴のひとつである、厚みがあっていかにも愛情深そうなくちびるは、優しい笑みを浮かべたまま半開きになっていた。篠宮さん。今にもそう話しかけてきそうな口許が、抑えきれない恋心を揺さぶって胸を切なくさせる。
注意深く辺りを見ながら画面を切り替え、篠宮は指先を伸ばして結城に送るメッセージを打ち込んだ。
『仕事のほうはどうだ。忙しいようだが、身体に気をつけて頑張ってくれ』
もう少し気の利いたことは言えないものか。逢いたくて胸が焼け焦げそうな思いをしているのに、こんな素っ気ない言葉しか出てこない。そう思って自分を責めながらも、篠宮は黙って送信ボタンを押した。
入力したメッセージが少し上に移動し、送信が完了したことを知らせる。電話の着信音が鳴ったのは、それから二秒後のことだった。
『あ、篠宮さん?』
耳に当てた電話の向こうから、結城のいつもの明るい声が聞こえてくる。
「……結城」
熱くなる胸を押さえ、篠宮は周りに人が居ないかを素早く確かめた。逢いたくて、声を聞きたくてたまらなかったのに、こんな時でさえやはり人目が気になってしまう。因果なものだ。
「仕事のほうはどうなんだ。私に電話している暇なんて無いくらい、忙しいんじゃないのか」
周りに誰もいないと確認し、篠宮は安心して声のトーンを少し上げた。電話の向こうから、結城が苦笑混じりに返事をする。
『たしかに忙しいけど、せめて声くらい聞かせてよー。何が辛いって、俺にとっては篠宮さんに逢える時間が大幅に減ったことがいちばん辛いんだからさ。空いた時間に少しでも篠宮さん成分を摂取しなきゃ、病気になっちゃうよ。今、通関士さんとの打ち合わせが終わって、一人でお昼ご飯食べてるとこ。篠宮さんも忙しいと思うけど、少しくらい話してもいいでしょ? ね? ね?』
「仕方のない奴だな……」
口先だけで文句を言いつつも、篠宮は嬉々として結城の言葉に応じた。自らが甘えるよりも、相手から我がままを言われて甘えられるほうが性 に合っているらしい。今さらのように、自分たち二人は相性がぴったりなのだとしみじみ感じる。出逢った頃は最悪の相性だと思っていたのが嘘のようだ。
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