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仕事と恋人

「打ち合わせと準備のためとはいえ、毎日あちこちに行かなければならなくて大変だな。今日はどの辺りをうろついてるんだ」 『今日は代々木なんだ。このあと本部長にも来てもらって、同行する弁護士さんの事務所で一緒に相談しながら、英文の契約書を作っていく予定。月曜日の顔合わせの時に大まかなところは話したんだけど、まだ細かい問題が山積みだからさ』 「そうか。私も英文の契約書作成については、二回ほど関わったことがある。大変だとは思うが、いい経験になるはずだ。頑張ってくれ」  相槌を打ちながら、篠宮はふと思いついて眉を上げた。これから新宿に向かう自分と、いま代々木に居るという結城……新宿と代々木なら、すぐ近くだ。 「何時くらいに終わる予定なんだ」 『話の進み具合にもよるけど……まあ、定時には終わらせたいよね。天野係長からは、今日も直帰でいいよって言われてるし』 「そうか。実は私も、今日は新宿で研修を受ける予定なんだ。終わる時間も同じくらいだし、もし良ければ……待ち合わせて、帰りに一杯飲んでいかないか」  少し声を低め、篠宮は控えめに結城を誘ってみた。  いつもの彼なら、二つ返事で承諾するはずだ。だが結城から帰ってきたのは、篠宮にとっては期待外れの答えだった。 『あー、ごめん……今日は仕事が終わった後、一緒に行くメンバーの飲み会があるんだよね。せっかくだからみんなで親睦を深めようって、本部長がお店の手配してくれてさ。あ、なんなら篠宮さんも来る? もし来るなら、もうひとつ席を用意してくれって、なんとか本部長にねじ込んでみるけど』 「い、いや……そこまでしなくていい」  神をも恐れぬ結城からの申し出を、篠宮は慌てて辞退した。本社の本部長といえば、たかだか主任の篠宮から見れば遥か雲の上の存在だ。招待された訳でもないのに、無理やり参加して本部長の手を煩わせるなんて、あまりにも恐れ多い。 「まあ君とはいつでも行けることだし、二人で飲むのはまた次の機会にしよう。明日も仕事だし、あまり飲み過ぎるなよ。じゃあな」  強引に話を終わらせ、篠宮は電話を切った。思いがけず結城の声を聞けて嬉しかったはずなのに、最後の飲み会云々の話のせいで、妙に暗い気分になってしまう。  篠宮さんからデートのお誘い……以前ならそう言って喜んでくれたのに。そう考えて落ちこむ自分の心を、篠宮は必死に叱咤して立て直そうとした。  あの時とは状況が違うのだ。仕事と自分とどっちが大切かなんて、そんな聞き分けのないことを言うつもりはない。仕事と恋人、この二つはまったく別次元のものだ。  働かなければ恋人と楽しく過ごすこともできないし、恋人がいるからこそ、多少の困難も乗り越えて働くことができる。どちらが大事かという単純な話ではない。そう頭では解っている。だが恋人が多忙になったせいで出来た、篠宮の胸にぽっかりと空いた穴は、どう言い訳をしたところでなかなか埋まってくれそうにはなかった。  ……こんなに寂しい思いをするなら、いっそのこと出逢わなければよかったのではないか。暗い考えが胸の底に忍び寄り、篠宮は急いで頭を振ってその思いを打ち消した。

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