373 / 396

気が晴れない

 渡された資料で少しばかり重くなった鞄を抱え、篠宮は帰りの電車に乗りこんだ。  仕事帰りらしいスーツ姿の乗客が大勢乗りこみ、車内はだいぶ混雑していた。とはいえ路線が違うためか、篠宮がいつも乗っている電車ほど人で溢れかえってはいない。毎日の通勤ラッシュで身につけた技能を活かして、篠宮はうまく吊り革の下に陣取った。  研修は無事に終わった。天野係長に一報を入れ、そのまま帰宅してもいいという許可を得た。久しぶりにデパートに寄り、特に急ぎではないものの、以前から欲しいと思っていた小物をいくつか買い揃えた。何もかもが滞りなく順調に進んだというのに、なぜか気が晴れないのは、恋人のことが心のどこかに引っかかっているせいだった。  昼の電話の時、結城は『今日は代々木』と言っていた。メンバーの親睦を深めるためという飲み会も、おそらくこの辺りで行われているのだろう。きっと今この瞬間だって、そう離れてはいない場所にいるはずなのだ。それなのに仕事のしがらみのせいで、逢うことができない。 『次は、代々木、代々木です……』  行き先を告げるアナウンスの声が車内に響いた。  思わず溜め息をついてしまいそうになる自分を、篠宮は鞄を抱える手に力を込めてなんとか律した。代々木という地名にはなんの責もないのに、なぜか恨めしいような気になってしまう。 「済みません、降りまーす」  篠宮の前の座席に座っていた女性が、自分が降りる駅が近づいてきたことに気づいて席を立つ。ドアが開くと、彼女は申し訳なさそうに身を屈めながら、他の乗客をかき分けて降りていった。  篠宮の眼の前に、彼女の座っていた一人分の座席がぽっかりと空く。  空いた席に座るべきか、座らざるべきか。座席の近くにいた数人から、お互いに真意を探り合うような気配が感じ取れた。  皆が皆、躊躇して迷う気持ちは篠宮にも理解できた。座ってしまえばたしかに楽だが、混んでいる電車の場合は、降りるのが面倒になるというデメリットもある。つまり、一概に座ったほうが良いとばかりも言えないのだ。  結局のところ誰も座ろうとしないのを知って、篠宮は辺りを見回した。近くに年寄りや妊婦、身体の不自由な人はいないようだ。  このまま空席の前に立っていても、かえって迷惑だろう。そう判断した篠宮は、眼の前の席に腰かけた。それほど疲れてはいないつもりだったが、やはり研修で気を張っていたのか、席に腰かけたとたん疲労感が一気に押し寄せてくるのを感じる。

ともだちにシェアしよう!