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頭から離れない

 ……結城は今、どこに居るのだろう。自分の知らない誰かと一緒に、楽しく談笑しているのだろうか。ふとそんな事を考えてしまい、篠宮は自分の独占欲に嫌気がさした。断じて浮気などではないと解っているのに、結城が自分以外の人と話していると思うだけで、心が千々に乱れる。  座ったまま僅かに視線を上げ、篠宮は他の乗客たちを眺めた。  時間帯のせいか、車内は仕事帰りと思われる人々で埋め尽くされている。篠宮と同世代の男性もかなり多い。彼らはみな一様に、片手にスマートフォンを握り締め、小さな画面の中にそれぞれの楽しみを見つけていた。  きっと。この中の大多数の人には恋人が居て、仕事の合間にはお互いに連絡を取り合ったり、週末には人並みにデートを楽しんだりしているのだろう。  だがもちろん、それは生活のすべてではない。会社にいる時は仕事に勤しみ、業務が終わればゲームや友達との遣り取りなど好きな事を楽しんでいる。それが普通というものだ。相手のことが恋しくて恋しくて、片時も頭から離れない……そんな男は、おそらく自分一人に違いない。  最近、結城に対する自分の想いが、単なる恋というよりは異常な執着に近いような気がしてならない。彼が近くに居ないと不安でたまらず、すぐに連絡して安否を確かめたくなってしまう。その気持ちをどうにか表に現さずに済んでいるのは、これまでの人生で培ってきた鋼の自制心のお陰だった。  結城が自分を深く愛してくれている事は、今さら考えるまでもなく解っている。仕事が忙しくなり、今までのように頻繁には逢えなくなる……それは恋人同士であれば珍しくもない、二人で協力して乗り越えていかなければいけない壁だ。結城は気持ちを新たにして前に進もうとしているのに、自分だけが変化を恐れ、過去に囚われている。  まるで恋愛依存症だ。そう思って篠宮は暗澹たる気持ちになった。二十六にもなってこんな事で悩んでいるのは、これまで恋愛というものに免疫が無さすぎたせいなのだろう。  世間の人たちはこんな風に恋に悩んだ時、気のおけない友人に気軽に相談しているのかもしれない。女性は特にその傾向が顕著だ。男性だって親しい仲間に対して、彼女との仲が上手くいかないと愚痴をこぼすことくらいあるだろう。  だが親友と呼べる人がいない自分は、いったい誰に相談するべきなのか。篠宮は改めて考えてみた。結城本人にはとても言えない。すでに分不相応なほど愛されているというのに、この上さらに揺るぎない愛情が欲しいなどと言ったら、確実に嫌われてしまう。  もし橘がただの友人だったら、相談することができただろうか。彼は年上で、それなりに恋愛経験も積んでいて、何よりも聞き上手だ。もし自分が恋の悩みを話したら、きっと良い相談相手になってくれただろう。そう考えると今さらながらに、彼と友人になれなかったことが惜しまれる。  彼の財産自体にはなんの興味もない。だが生活の心配がない事から生まれるあの心の余裕は、普通では真似のできない、誠に得難い資質だ。せっかくめぐり会ったのに、おかしな恋愛感情が絡んだせいで縁を切ることになってしまったのは、返すがえすも勿体ない話だった。  結局のところ。橘が抱いていたという思いは、本物の恋心だったのか、それとも一時の気の迷いだったのか。後者だったとしたら、慌てて関係を断つのは性急すぎたような気もする。もし再び偶然に会うことができたら、その時はあのモデルの話を引き受けてもかまわない。そうとさえ思った。  だが実際のところ、このさき橘に会うことは叶わないだろう。個展が終わってから、すでに十日以上が経っている。今頃は新しい絵を描くため、軽井沢の自宅に帰っているに違いない。  近ごろ妙に橘のことを思い出してしまうのは、結城と逢う時間が少なくなったせいだろうか。ふとそんな事を考えてしまい、篠宮は慌てて自分を戒めた。  忙しい中でも、結城は時間をやり繰りしてまめに連絡をくれる。彼のように完璧な恋人に不満を感じるなんて、本当に罰当たりな話だ。  胸に秘めた思いを持て余し、篠宮は心を落ち着けるために眼を閉じた。電車の走る単調な音が、静かに耳に響いた。

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