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秋も終わり

 風がざわめいた。  ペンキの剥げかけた窓枠に手を掛け、篠宮は微かに開いていた窓をきっちりと閉めた。冷たい風は病人には毒だ。  ねじ締め式の古い錠前の向こうに、赤や黄色の葉が休みなく舞っているのが見える。少し離れた林の樹々は、すっかり葉を落としたうら寂しい姿をさらしていた。もう、秋も終わりだ。 『……篠宮さん』  ベッドに横たわっていた結城が、うっすらと眼を開ける。慌てて身をかがめ、篠宮は起き上がろうとする彼を制した。 『起きなくていい。あと、無理に喋るな。休んでいろ』 『でも……最後に、篠宮さんにきちんと話しておきたい』  健康だったあの頃からは想像もつかないほど、細く痩せた喉から掠れた声が洩れる。その頰は冷たく青ざめ、眼の下には隈が浮かんでいた。 『馬鹿。最後だなんて……何を弱気になっているんだ。君はこの先、十年でも二十年でも、五十年だって生きられる。話なんて、その間にいくらでもできるじゃないか』  わざと渋面をつくり、篠宮は重い雰囲気を吹き飛ばすように結城を叱りつけた。 『ありがとう、篠宮さん。気休めでも、そう言ってもらえると嬉しいよ。でもね。自分で分かるんだ。今度こそ、本当に最後だって』  枕に頭をつけたまま、結城が篠宮の眼を見据えて優しく微笑む。  本当に最後。いくら感情で否定してみても、篠宮は結城のその言葉が真実だと本能で悟っていた。力の失せた弱々しい吐息。血の気のない白いくちびる。かつては明るく若さに輝いていた、彼の秀でた額に忍び寄る死の影が、その時が近いということを如実に告げていた。 『ごめん、篠宮さん。一人にしちゃうけど……もっといい人を見つけて、幸せになって』 『馬鹿! 君が居ないのに、幸せになんてなれるわけないだろう!』  思わず、篠宮は声を荒らげた。劣っているとか優れているとか、そんな問題ではない。彼しかいない。自分に幸せを与え、優しい温もりで心を満たしてくれる人は、彼をおいて他には存在しないのだ。 『なれるよ……普通に女の人と結婚して、子供つくって……ね?』  そこまで口にしたところで、結城は激しく咳き込んだ。  くちびるの端から、血の混じった唾液が僅かに滲み出る。咄嗟に、篠宮は枕元にある(ボタン)に手を伸ばした。これを押せば、医師が来て適切な処置をしてくれる。こんな事はこれまでにも何回かあった。大丈夫だ。結城が自分を置いて死ぬことなど、あるはずがない。 『駄目。誰も呼ばないで』  病人とは思えない強い力で、結城は篠宮の手を押しとどめた。 『篠宮さんと二人でいたい』  振り絞るような掠れた声が、細く開いたくちびるからこぼれ落ちる。青白い顔の中で、その両の眼だけは熱を持って爛々と輝いていた。 『篠宮さん。大好きだよ。愛してる。だからお願い。最期の瞬間は、篠宮さんと二人きりで居させて』  美しい弧を描いた結城の眉が、苦しげに歪められる。すがりつく手に力がこもり、篠宮の手首に赤い爪痕を残した。 『さよなら、篠宮さん……愛してるよ』  聞き取れぬほど小さな囁きと共に、結城の腕が掛け布団の上に落ちる。霊的な現象など篠宮は信じていなかったが、その瞬間に彼の魂が肉体を離れて、自分には手の届かないどこか遠くへ飛んでいくのを確かに感じた。  ……終わってしまった。終わってしまったのだ。幸せも喜びも、自分にとって価値のあるものはすべて彼と一緒に失われてしまった。  医者を呼ぶことも忘れ、篠宮はその場に崩折れた。急に強くなった風が、ペンキの剥げた窓枠をがたがたと揺らした。

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