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こんなに気が重いのに

『次は、麻布十番、麻布十番……』  突然、場違いなアナウンスが頭上に響く。篠宮は驚いて眼を見開いた。  書類鞄の置かれた自分の膝。吊り革につかまっている、仕事帰りらしい乗客たち。振り向けば、窓の外には地下鉄の線路脇の、代わり映えのしない薄汚れた景色が流れているだけだ。  いつのまに眠っていたのか。いくら気が滅入っていたとはいえ、ほんの少しうたた寝する間にこんな夢を見るなんて、最悪だ。  電車がホームに停まり、軽快な音と共に扉が開く。ここは何処だろうと思いながら、篠宮は辺りを見回した。寝起きのせいかうまく頭が働かないが、どことなく見知った駅のような気がする。よく見ようと(まばた)きをした刹那、涙が頬を伝うのを感じた。  慌てて頬を隠し、篠宮は鞄を抱いて立ち上がった。電車の中で夢を見て泣くなんて、情緒不安定も甚だしい。幸いなことに周りの人は、小さな画面に眼を向けたままひたすら自分の世界に没頭していて、たまたま乗り合わせた他の乗客のことなど気にも留めていなかった。  発車を知らせる合図の音が鳴る。流れ落ちる涙を必死に押さえ、篠宮は追い立てられるように電車から降りた。  駅を出て、石畳の道路の脇を当てもなく歩く。雲のかかった夜空から、小さな水滴が落ちて額を濡らした。  雨だ。 「えー。降るなんて聞いてないよー」  周りでは道行く人々が、慌てふためいた様子で歩を早めている。好都合だと篠宮は思った。突然降ってきた雨が、誰にも不審に思われることなく、ごく自然にこの涙を隠してくれるだろう。  まったく、どうしてあんな夢を見てしまったのか。現実とはまるで関わりのない、荒唐無稽な夢の内容を思い出し、篠宮は心の中で自らを嘲笑った。いま考えてみると、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。晩秋のサナトリウムに肺病の恋人なんて、戦前の文学青年の妄想だ。 「あ……」  特に目的もなく歩いていたつもりだったが、気がつくと篠宮はガラス張りのカフェの前に居た。以前に橘と来たことのある、夜はダイニングバーになるというあのカフェだ。  昼間とはまた違った趣きの、華やかなシャンデリアの明かりが眼を引く。外から見る限り客の入りは良く、なかなか盛況のようだ。  少し離れた場所に立ち、篠宮は遠慮がちに店の入り口を見つめた。洒落た軒先の上には、流れるような飾り文字で店の名が記されている。『le Plaisir』と書かれた金色のプレートが、涙と雨のせいで霞んで見えた。  手のひらで顔を押さえ、篠宮は思わず苦笑した。こんなに気が重いのに『歓喜(プレジール)』だなんて、なんという皮肉だろうか。 「……篠宮さん!」  不意に、傍らから名を呼ぶ声がした。  篠宮はぴくりと肩を震わせた。声の主は、結城ではない。優しく落ち着いた美声ではあったが、篠宮がいま聞きたいと恋い焦がれる、甘く人懐っこい彼の声ではなかった。 「どうされたんですか、こんな所で、傘もささずに……風邪をひいてしまいますよ」  微かにうつむき、篠宮は声のするほうへ眼を向けた。品のある上質な服を着て眼鏡を掛け、篠宮に向かって傘を差しかけているのは、もう二度と会うことはないと思っていたあの人物だった。 「橘さん……」  特に格別な喜びがあったわけではないが、刺すように降る冷たい雨の中、見知った顔に出会うとやはりほっとした。 「どなたかと待ち合わせですか? もしよろしければ、この傘を差し上げますよ。個展の片付けはとうの昔に終わりましたが、なんとなく次の絵を描く気も起こらなくて、まだこの近くのホテルに泊まっているんです。その、つまり、どうしても……」  篠宮の顔を見上げ、橘は申し訳なさそうに呟いた。 「あなたの事を忘れられなくて」  再びなされた愛の告白を、篠宮は驚きと共に受け止めた。では、自分を好きだという彼の思いは、一時的なものではなかったのだ。二週間近く前にこのカフェで別れてから、彼がずっと望みのない恋を抱えて苦しんでいたのかと思うと、淡い憐憫の情が篠宮の心に湧き起こった。  自分の恋人が橘であれば良かった。今さらどうにもならないと解っていても、篠宮はそう考えてみずにはいられなかった。  相手が結城ではなく橘なら、自分はいつか来る永遠の別れを思って、こんなに苦しむこともなかっただろう。橘は八つも年上だ。たとえ彼のほうが先にこの世を去ることになっても、自分はきっと、それを自然の摂理として受け入れられる。 「橘さん。あのモデルの話……お受けします」  衝動的にそう呟いてしまい、篠宮は慌てて口を閉ざした。だが、いちど出てしまった言葉は元には戻せない。 「……本当ですか」  驚愕に一瞬眼を見開いた後、橘は穏やかに微笑んでカフェの入り口を示した。 「とにかく、中へ入りましょう」  泣いたせいで、眼の周りが赤くなってはいないだろうか。急にそのことが気になり、篠宮は瞼に指先を当てた。少し熱を持っているが、腫れているというほどでもない。大丈夫だ。  雨のなか店の軒先に立ち尽くし、以前に断わったはずのモデルの話を唐突に承諾する……明らかに訳ありなのに、橘は何も訊かずにいてくれる。その気遣いをありがたく感じながら、篠宮はシャンデリアの輝く店内に足を踏み入れた。

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