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特製卵焼き

「はあ……」  昼食の入ったレジ袋を、いつものように休憩所のテーブルに置き、篠宮は小さく溜め息をついた。  雨模様の昨夜とは打って変わり、今の窓の外には綺麗に晴れた青空が広がっている。以前に行った麻布のカフェで、偶然にも橘に会ったことを思い出し、篠宮は喜んでいいのか悲しむべきなのか複雑な気分になった。  最近、本当に気持ちが不安定だ。結城とうまくいっていないわけでもないのに、なぜこんなに心が乱れるのか。我ながら納得がいかない。  昨夜は電車の中で妙な夢を見て気持ちが動揺していたせいか、衝動的にモデルの話を引き受けてしまった。もちろん橘とは、それ以上のことは何もない。単に二人で食事をしただけだ。お互いに気まずい思いが残っていたせいか、会話も以前のようには弾まなかった。唯一まともに話したのは、絵のモデルの予定についてくらいだ。  二人で話し合った結果、モデルの件は再来週の土曜日という事に決まった。土曜日であれば篠宮の仕事の都合もつくし、その頃なら橘も自宅に帰って絵の準備ができるからという、ごく自然な流れで決まった計画だった。  篠宮はもういちど日程について思い返した。再来週の土曜日といえば、結城は海外出張の真っただ中だ。恋人が出張している間に他の男の部屋に行くなんて、なんとなく浮気めいていて気が咎める。しかもその相手は、自分に友情以上の好意を抱いている男なのだ。  だが、今さら断るわけにもいかない。いくら気持ちの浮き沈みが激しいとはいえ、篠宮にも仁義を守りたいという思いはあった。いちど拒絶した話を思い直して引き受け、さらにまた断るなんて、いくらなんでも勝手すぎる。  別れ際に橘は『何かあれば連絡くださいね』と言って、電話番号の書かれたメモ用紙を渡してくれた。連絡先くらい以前に交換していたはずだが、橘は、潔癖な篠宮がそれを削除してしまったことを薄々感じ取っていたのだろう。相手の失態を深く追求せず、あくまでもスマートに、さりげなく取り繕う。つくづく、橘は大人の男だと思う。 「あ、いたいた! 篠宮さん!」  背後から、唐突に元気な声が響いてきた。  心臓を鷲掴みにされたような気がして、篠宮は間髪をおかずすぐに振り向いた。よく似合う赤いネクタイを締めた結城が、太陽のような笑みを浮かべて走り寄ってくる。この場所で久しぶりに彼に逢えたことが嬉しくて、篠宮は思わず立ち上がった。廊下を走るなという、いつもなら眉をひそめて言いたくなるはずの小言も、今はなぜか出てこない。 「はい篠宮さん、ヘアワックス貸してくれてありがとー! 返すの遅くなっちゃってごめんね」 「ヘアワックス……?」  手渡された容器を見て、篠宮はようやく思い出した。これはたしか月曜日の朝に、結城に貸した頭髪用のスタイリング剤だ。念のため常に鞄に入れてある物だが、あのあと特に使う機会もなかったので、すっかり忘れていた。 「それと。ささやかだけど、これはお礼」  楽しそうに眼を細め、結城がさらにハンカチに包んだ何かを手渡してくる。篠宮は首を傾げた。 「なんだ……? これは」 「えへへー。愛情たっぷりの、俺の特製卵焼きと小松菜の煮物! 今日の朝、少し時間があったからさ。篠宮さんに喜んでもらおうと思って作ってきたんだ。お昼はもう用意してると思うけど、このくらいなら食べられるでしょ?」  お得意の悪戯っぽい笑みを浮かべ、結城がこっそりウィンクをする。嬉しそうにきらきら輝くその瞳を見ていると、あまりの愛しさに息が止まりそうになった。 「そんな……忙しいのに、わざわざ作ってきてくれたのか」 「忙しいからって放ったらかしにしといたら、周りの狼どもが、すぐに篠宮さんを横から掻っ攫っていっちゃうでしょ! いい篠宮さん? 俺には篠宮さんだけなんだから、篠宮さんも、ちゃんと俺だけを見ててよ? 約束だからね!」 「あ……ああ」  あまりの剣幕に気圧され、篠宮は呆気にとられながら頷いた。一瞬、ここが会社だということを忘れかける。完全に結城のペースだ。 「じゃあ俺、午後は外回りで直帰だから! また明日ね、篠宮さん!」  早口で好き勝手なことをまくし立てたかと思うと、結城は嵐のような勢いで去っていった。 「……馬鹿」  いつもの癖でそう呟いてから、篠宮は静かに椅子に座り直した。騒々しいのは確かだが、結城も忙しい仕事の合間を縫って、わざわざここに足を運んでくれたのだろう。それを考えると、どうしても憎めない。  結城からもらった包みを眼の前に据え、篠宮は紺色のハンカチを開いた。中にはプラスチック製の、小さな蓋つきの保存容器が入っている。蓋を開けると結城の言っていたとおり、色鮮やかな卵焼きと青菜の煮物が姿を現した。端のほうにはご丁寧に、フォーク型の可愛らしいピックが添えられている。  食べやすく切り分けられた卵焼きに、篠宮はピックを突き刺した。  やや甘い香りのする卵焼きの断面は、よくできたパイ生地のように、美しく何層にも重なっている。料理上手な結城にとっても、これはきっと会心の出来だろう。芸術的ともいえる断面をひとしきり眺めてから、篠宮はそれを口に運んだ。  卵と出汁と調味料が絶妙に融け合った、優しい味が舌の上に広がる。普段は辛党の篠宮だが、結城の作ってくれる卵焼きだけは、なぜか甘いほうが好きだった。自分の記憶にはないはずの、ふわふわと柔らかい、幸せな家族の温もりを思い出させてくれるような気がする。 「美味しい……」  誰にも聞かれないように、篠宮は小声で感想を呟いた。甘く幸せな味を感じているはずなのに、なぜか鼻の奥がつんと痛む。  仕事で忙しい中、結城はわざわざ時間を割き、恋人に届ける料理を用意してくれたのだろう。その心遣いには本当に感謝している。  それでも、やはり彼にここに居てほしいという気持ちを抑えきれず、篠宮は自らの貪欲さを恥じた。  恋しい。一緒にいたい。こんなに愛されているのに、それでもまだ足りないと思ってしまう。そんな自分をひどく罪深いものに感じた。

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