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崖の上の白百合
昼食を終え、営業部の自分の席へ戻る。午後の仕事に取りかかろうとしたところで、不意に廊下のほうから騒がしい声が聞こえた。
「もうー。本当にいいんですか? エリックさぁん。私たち、あんなにご馳走になっちゃって」
「もちろん。ここに居るみんなのように愛らしい女性たちになら、いくら貢いでも惜しくはないよ」
どこか気取った感じの、聞き覚えのある男性の声が響いてくる。
周りを取り巻いているのは、隣の商品企画部の女性たちだろうか。一人二人ではない、華やかな複数人の声だ。
「でもエリックさん。篠宮主任のことは諦めちゃったんですか?」
「そうですよぉ。エリックさんが篠宮主任を好きって仰ってたから、私たち、ここはおとなしく引き下がろうと思ってたのに」
廊下からさらに甲高い声が響き、篠宮はあまりのきまり悪さにそっと顔を伏せた。だいぶ前の話だが、エリックが花見の席で篠宮を好きだと公言したことは、その後しばらく女性たちの噂の種になっていた。あれから半年が経ち、ようやくみんなの好奇心も落ち着いたというのに、今さらそんな話を蒸し返さないでほしい。
「諦めてはいない……と言いたいところだけどね。ぼくがマサユミにちょっとでも近づくと、ユウキが物凄い剣幕で怒るんだよ」
「たしかに……結城さん、篠宮主任に近づくものは猫でも許さないって感じですからね。この前も、仕事で行った保育園の女の子が、篠宮主任にラブレター渡してたってめちゃめちゃ文句言ってましたよ」
「そうだろう? いくらマサユミが魅力的とはいえ、さすがのぼくも、暗闇で背中を刺されたくはないからね。だから、考えを改めることにしたんだ。崖の上の白百合にわざわざ手を伸ばさなくても、ここには薔薇も牡丹もカトレアも揃ってるじゃないか。君たちがここに居てくれるんだから、ぼくも好きこのんで人の恨みをかうようなことはせず、美しい花には平等に眼を向けようと思ってね」
歯の浮くような台詞が聞こえる。声から察するに、経営戦略部のエリック・ウォルター・ガードナー部長補佐が、隣の商品企画部の女性たちを周りに侍らせて休憩時間を楽しんでいるらしい。
男も女も見境いのない彼の言葉に、篠宮は呆れ返って溜め息をついた。誰が崖の上の白百合だ。
「いやぁん、美しい花って、私たちのことですか?」
「もちろんだよ」
「きゃあ! もうエリックさんてば、お世辞がお上手なんだから」
女性たちの嬌声が響いてきて、篠宮は思わず頭を抱えた。見た目からして白馬の王子様のようなエリックが、本気で女性たちを侍らせ始めたら、ここは会社なのか彼のハーレムなのか判らなくなってしまう。
「相変わらず凄いな、エリックさんの人気っぷり。山口、おまえ、エリックさんばっかりあんなにモテて狡いなんて思ってんじゃないの? 俺はレイナが居るからいいけどねー。へへ」
「まあ正直、一人くらい分けてくれよとは思うけどさ……ああやってキャーキャー騒ぎたくなる女の子たちの気持ちも分からんではないわな。あれだけの美形で、さらに部長補佐だし」
向かいの席にいる山口と佐々木が、廊下での騒ぎを評して何やら話をしている。
二人に勤務態度の手本というものを示そうと、篠宮は気を取り直してキーボードに指を置いた。何人もの寵姫たちを適当にあしらって平等に愛するなんて、自分にはとても真似のできない所業だ。そう考えると、羨ましくもなんともない。
「……それじゃあ、ぼくは営業部に用事があるからね。しばしのお別れだけど、また昼食を一緒に食べてくれると嬉しいな」
「はい! こちらこそ、またお願いしますね!」
「エリックさんならいつでも大歓迎ですぅ」
色気と愛想を振りまく声が聞こえたかと思うと、踵を返して去っていく複数の靴音がする。ようやく済んだと思って、篠宮はほっと胸を撫で下ろした。いくら休憩時の自由時間とはいえ、こんな所で会社の風紀を乱されてはかなわない。
「……どうも、こんにちは」
足音が遠のいてしばらくすると、当のエリックが営業部の入り口に顔を出した。
「ユウキは居る?」
辺りを見回し、眼に入る場所に結城が居ないことを知ったエリックは、とりあえず手近にいた佐々木に声をかけた。
それとなく、篠宮はその話に聞き耳を立てた。エリックが営業部に用事があると言っていたのは、単に女性たちを追い払うための方便ではなかったらしい。
「ああ、エリックさん。結城なら、ちょっと前に出かけましたよ」
営業部の中でもとりわけ愛想の良い佐々木が、にこやかに笑って答えを返した。
「ああ、そうか。彼は今、新しい取引先とのスケジュール調整で忙しいんだったね」
鷹揚にうなずき、エリックは篠宮の近くまで歩を進めた。
「マサユミ。先日は雑誌の取材の件を完璧にこなしてくれて本当にありがとう。おかげさまで満足のいく写真が撮れたよ。仕上がってきた記事を君たちに見てもらいながら、ミスター・タダと四人で話をしたかったのだけれど……ユウキが不在なら、とりあえず君だけでも来てもらえないかな。時間は十五分程度で済むと思う。手間は取らせないよ」
そう言われて、篠宮は僅かに警戒の視線を向けた。
他に恋人があることを知りながらも、エリックは自分に横恋慕している。こんな無愛想な男のどこが良いのかさっぱり解らないが、とにもかくにも、それは事実だ。ホテルの一室に誘われたこともある。隙を見せるわけにはいかない。
「部長もいらっしゃるのですね」
作業の手を止め、篠宮は慎重にその点を確認した。部長が同席してくれるなら、エリックと二人きりになることもない。いくら結城が居ないとはいえ、その場で手を出してくるようなことはないだろう。
「ああ。上の階に居るよ」
くちびるの端を上げ、エリックが魅力的な笑みを見せる。だがその優しげな瞳の中に、相変わらず狡猾な肉食獣のような光が宿っているのを篠宮は見逃さなかった。おそらく隙あらば口説こうと、虎視眈々と狙っているに違いない。
自らの置かれた状況に納得がいかず、篠宮は苦々しい思いで眉をしかめた。結城にエリックに橘……揃いも揃って人並み以上の容姿を持ち、数々の美点に恵まれている男たちが、なぜこんなにも自分の周りに集まってくるのだろうか。まったくもって不可解極まりない。
「分かりました。部長をお待たせするわけにもいきませんから、さっさと済ませましょう」
我ながらぞっとするほど冷たい受け答えに、周囲が驚いて顔を上げる気配がする。それを無視して、篠宮は立ち上がった。
考えてみれば、結城が来る前はいつもこうだった。冷たそう。真面目すぎる。融通がきかない。いつもそう言われ続けてきた。入社して三年目で主任の地位を得たのも、単にその勤勉さが評価されたからに過ぎない。
頑なで人と関わることを好まない、そんな自分に変化をもたらしてくれたのは結城だった。
彼と付き合うようになってから、心に余裕が生まれ、仕事も円滑に進むようになった。それは恋人に愛されているという自信によるものでもあったが、何よりも結城が常にそばに居て、明るい笑顔で支えてくれたお陰だった。
周りの人に気づかれぬよう、篠宮は静かにくちびるを噛み締めた。結城が近くに居ないというだけで、自分でもおかしいと思うほどに心が揺らいでいる。
なぜ自分は、世間の人たちのようにうまく気持ちを切り替えることができないのだろうか。こんな恋愛を続けていては、お互いにとってマイナスだ。今はまだいいかもしれないが、この状態がずっと続くようでは、結城だってそのうち愛想を尽かすだろう。
「いいねえ。そのクールな声を聞くと、ぞくぞくするよ。君を怒らせて思いきり罵倒してもらったら、きっと楽しいだろうな。さあ、その麗しいお御足をお運びくださいませ、女王様。僭越ながらこの私 めが、カンファレンスルームへご案内いたします」
軽口を叩きながら、エリックが大仰に頭を下げる。
気は進まないが、仕事とあらば仕方がない。不機嫌な顔を隠そうともせず、篠宮は黙ってその言葉に従った。
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