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幸か不幸か

 エレベーターの中で、エリックと二人きりになるのは避けたい。そう思って身構えていたが、幸いにも他に利用者がいたおかげで、そのような事態にはならずに済んだ。  目的の階に着くと、篠宮は厚みのあるカーペットの上に足を踏み出した。  総務だの人事だの営業だのといった部署はほぼ三階までに収まっていて、篠宮たちのような普通の社員が上階に来る機会はあまりない。滅多に訪れることのないその場所は、他に人気(ひとけ)もなく静まり返っていた。 「どうぞお入りください、女王様」  わざとらしい会釈と共に、エリックが白い扉を開けた。  おそらく特注であろう、雲のように不思議な曲線を描くテーブルが視界に入る。その向こうには、都会の景色を一望できるガラス張りの壁があった。  篠宮が勤務するサエジマ本社ビルには、用途に合わせて細かく使い分けられる、十室以上の会議室がある。中でも、このカンファレンスルームこと第三会議室は、もっとも広くて窓からの眺めも良い。聞くところによると、映画やドラマの撮影にも何度も使われているという話だ。  左右に視線を動かし、篠宮は辺りを見回した。窓からの眺望を楽しむためではない。それは、もっと重大な理由から出た行動だった。 「多田部長は……? どこにいらっしゃるのですか?」  篠宮は恐る恐る尋ねてみた。テーブルの上には、資料らしき数枚の紙とノートパソコンが置いてある。もちろん椅子も揃っている。だが、肝心の部長の姿はどこにも無かった。 「ああ。ミスター・タダなら、上のミーティングルームで別の会議に出ているよ」  当たり前のような口調で答え、エリックが肩をそびやかす。 「えっ……」  一瞬の驚きの後、篠宮はすべてを理解した。  おそらくは話し合いの時間など、最初から設定されていなかったのだ。結城は外出しているし、部長は別の会議に出席している。この部屋で話があると持ちかけたのは、二人の不在を知ったエリックが、自分を誘い出そうと仕掛けた罠だったに違いない。 「……騙したんですね」 「騙しただなんて人聞きが悪いな」  抜け目なく扉を背にしながら、エリックが即座に言い返す。人を小馬鹿にしたその笑みを見ていると、腹の底から怒りが込み上げてきた。 「雑誌の記事について、出来栄えを知らせたかったのは本当だよ。資料としてそこにまとめておいたから、後で眼を通してほしいな」  エリックが顎でテーブルを指し示す。そちらには眼もくれず、篠宮はすぐに扉へ向かって引き返した。 「おっと。どこへ行くんですか、女王様」  開けられないようドアの把手をしっかりと押さえ、エリックが口の端を歪める。篠宮は毅然として言い放った。 「席に戻ります。メールの返信をしなければなりませんので」 「あそこに置いてある、記事についての資料は? 持っていってくれないと困るんだけど?」 「後で届けてください。それで充分です」  傲慢とも取れる冷たい声で言い返し、篠宮はさらに歩を進めた。  把手を握ろうと手を伸ばすが、そのたびにエリックが、巧みに身体を揺すってそれを阻止する。 「くっ……」  何度か攻防を繰り返してから、篠宮は力では敵わない悔しさに拳を握り締めた。かなり鍛えているらしく、身体的な能力はエリックのほうが上だ。このままでは埒があかない。 「待ってくれ。わざわざここに呼び出したのには、訳がある。君に訊きたいことがあるんだ」 「ご質問でしたら、結城がいる時におうかがいします。とにかく、今は席に戻らせてください」  結城のいない隙を狙って呼び出すなど、どうせろくな話ではない。そう感じた篠宮は、あくまでもエリックの申し入れを撥ねつけた。 「君も強情だな。これでも、ぼくは気を遣ってるんだよ。君が正直に答えられるように、この場所を選んだんだ。ユウキに聞かれたらまずいんじゃないかと思ってね」 「何のことでしょうか。結城に聞かれてまずいことなんて、ひとつもありません」 「それはどうかな」  不意に真剣な顔をして、エリックは篠宮の眼を真っ直ぐに見つめた。エメラルドの色に輝く双眸が、真実を探るように僅かに細められる。 「君も暇じゃないだろうから、単刀直入に聞かせてもらうよ。麻布のル・プレジールというカフェで、ユウキ以外の男と二人で会っていた。そうだね?」  いきなりそう問われ、篠宮は驚いて言葉を失った。嘘を言い慣れている人間だったら、人違いではないかとすぐに言い返せただろう。だが幸か不幸か、篠宮はどう頑張っても悪人にはなれない、その場しのぎの言い逃れや嘘偽りとは縁のない男だった。 「お得意の動画撮影ですか」  苦しまぎれの嫌味が口をついて出る。さすがに気を悪くしたのか、エリックがぐいと歯を食いしばるのが見て取れた。 「人を盗撮魔みたいに言わないでほしいな。あのカフェは、ぼくの住んでるマンションから目と鼻の先にあるんだ。昨日の夜、君は眼鏡をかけた三十代くらいの男と、二人で食事をしていたね。二週間ほど前にも、同じ男と一緒にいるのを見かけたよ」 「食事をしていたら、どうだと言うんですか。ただの友人かもしれませんよ。たまたま会った知り合いと二人で食事をしたって、別に悪いことではないでしょう」 「この短期間の間に、二回も?」 「偶然です」  この場から逃れたい一心で、篠宮は必死にうそぶいてみせた。本当は橘と出会ったその日にも二人で食事をしていて、実際のところは計三回になるのだが、そんな事をいちいち教えてやる必要性もない。 「じゃあ、ユウキはその事を知ってるんだね?」  エリックの眼が、ひときわ強い光を宿して篠宮を射抜いた。 「それは……」  言葉に詰まり、篠宮は黙って顔をそむけた。やはり自分は詐欺師には向いていない。当たり障りのないことを言って、うわべだけを取り繕うのも限界だ。 「やっぱりそうなんだね。あれだけ嫉妬深いユウキが、君が自分以外の男と二人で過ごすなんてことを許すはずがない。それに潔癖な性格である君が、軽い気持ちで他の男と食事に行くわけがないのも解ってる。本当に食事だけの関係なのか? 教えてくれ。あの男は、君の何なんだ?」 「別に、そんな事……どうでもいいじゃありませんか」 「どうでも良くないよ。ぼくは、ユウキ以外の男に君を譲るつもりはないんだ」  普段の柔和な仮面をかなぐり捨て、エリックが強い口調で言い放つ。その勢いに気圧され、篠宮は一歩後ずさった。

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