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心境の変化

「君は知らないかも知らないけどね。君がデートしていた男……あの男は、その筋じゃ有名なんだ。若くて綺麗な男の子を、とっかえひっかえ連れて歩いてるのをよく見かけるよ。君みたいなタイプはあまり好みじゃないのかと思ってたけど、たまにつまみ食いしてみたくなったのかな」  橘に同性の、それも複数の恋人がいる。それを聞いて篠宮は少し驚いたが、大した衝撃は受けなかった。  嫉妬や独占欲を感じるのは、相手が結城だからだ。橘に、自分ひとりだけを愛してもらいたいとは思わない。それにエリックが耳にしたという橘の噂話など、なんの信憑性もなかった。事によると会話の流れを有利に進めるための、単なる口からの出任せかもしれない。 「別にいいじゃありませんか。あの人に他に恋人がいたところで、私は一向にかまいませんよ」 「他にって……それはつまり、君もその恋人の一人だっていう事なのか」  眉をひそめ、エリックは篠宮に疑わしげな視線を向けた。 「恋人ではありません。でも、そうなってもいいとは思っています」 「まさか……冗談だろう?」  よほど驚いたのか、エリックが喉の奥から掠れた声を洩らす。篠宮はその隙を狙ってドアノブに手を掛けようとしたが、事はそう簡単には運ばず、かえって手首を取られ壁際に追い詰められる形になった。 「……本気です」  悔しさに身を震わせながらも、篠宮は腹の底に力を込めてエリックの眼を見返した。  恋人として橘を選んでもいい。自分が結城以外の誰かに眼を向けるなど有り得ないと思っていたが、こうして口に出してみると、それはずっと以前から胸の中に宿っていた考えのように思われた。 「どうしてそんな事を……マサユミ。ユウキと何かあったのか?」 「何もありませんよ。でも、橘さんは紳士的で財力もあって、私のことを好きだと言ってくれています。どちらが自分にとって有益なのか、較べてみようと思ったところで、別に悪いことではないでしょう」  篠宮は静かに呟いた。好きという気持ちだけで相手を選んでも、幸福になれるとは限らない。性格に容姿、将来性と経済力……生涯の伴侶は、あらゆる点を総合的に判断して選ぶ。それは、世間のほとんどの人が当たり前のようにしている事だ。 「君が恋愛に、そんな打算的な考えを持ち込むなんて信じられないよ。マサユミ。君は、生涯にただ一人の人しか愛せないタイプの人間だ。複数の男を天秤にかけて品定めするなんて、君の口から出た言葉とは思えない。ユウキと別れてもいいと思うほどの魅力が、あの男にあるのか? たしかにあのピアノは素晴らしいよ。でも それは恋じゃない」 「恋じゃないことは分かっています。彼との間にあるのは、もっと穏やかで優しい、親愛の情……私はそれに魅力を感じているんです。結城と別れて、彼を選んでもいいと思うくらいに」  声を落とし、篠宮は力なく答えを返した。  このまま結城との付き合いを続けていけば、二人の絆はさらに深まるに違いない。今この時でさえ、彼の笑顔を想うと愛しさで胸が一杯になる。  彼と結婚して共に想い出を積み重ねたら、結城の存在はきっと、心の中をすべて埋め尽くすほど大きなものになってしまう。それを失った時の苦しみは篠宮には想像もつかず、また想像がつかないからこそ恐ろしいものだった。  もし、先にこの世を去るのが自分のほうだったら。そう考えてみても、なんの慰めにもならなかった。愛する人をこの世に置いていかなければいけない、その別れの苦しみと心残りは、どんなに辛く切ないものだろうか。  自分が居なくなったら、きっと結城は嘆き悲しむ。それが分かっているのに、どうする事もできないのだ。愛されれば愛されるほど、別れの瞬間が訪れた時、自分は彼を不幸にしてしまう。それを考えると、いっそ彼に嫌われてしまいたいとさえ思った。  好きだから別れたい。そんな風に考えてしまう自分は、きっとどこかおかしいのだろう。この悩みを他の誰かに話したところで、理解してもらえるとは思えなかった。  最愛の人と死別する。世間には、そんな安易なお涙頂戴ものの物語が溢れ返っている。死んだ恋人の魂が逢いに来てくれる、天国で再び結ばれる、生まれ変わってめぐり逢う……実際にはそんな事は有り得ない。死は、ただの死だ。  たとえ愛する人を失っても、二人の想い出が慰めを与えてくれる。世間の人はきっとそう言うだろう。だがそれは、ただの綺麗事に過ぎない。実際には、残された側の人間は、永遠に癒えない傷を負って苦しみ続けるのだ。現実に経験した事はなくても、篠宮は自分でも不可解なほどの強さでそれを確信していた。 「マサユミ。悪いことは言わないから、妙な浮気心なんて起こさずに、おとなしくユウキだけに眼を向けていてくれ。何があったか知らないが、そんな一時の気の迷いのせいで、君が不幸になっていくのは見るに耐えない」  その言葉を聞いて、篠宮は首を傾げた。冗談混じりの話とはいえ、エリックにとって結城は恋敵のはずだ。その彼が結城のそばに居ろと自分に勧めるなんて、どういう心境の変化だろうか。 「あなたが結城の肩を持つなんて意外ですね。あなたがた二人は、犬猿の仲なのかと思ってました」 「別に肩を持ってるわけじゃないよ。でも残念ながら、この世で君をいちばん愛し、他の何よりも優先して大切に思っているのは彼だ。それに君も、彼を憎からず思っている。君を幸せにできるのは、ユウキだから……そう思ったから、本気じゃないふりをして身を引いたのに」  篠宮の両肩を壁に押し付け、エリックは哀願するような表情で訴えかけた。 「ねえマサユミ。ぼくじゃ駄目なのか? 君がユウキを捨ててあの男を選ぶんだったら、代わりにぼくでも良いはずだ」  いつもの不遜な彼からは想像もつかない、切々とした口調が胸を打つ。  たしかに結城ではないなら、他の誰でも一緒だ。エリックは頭の回転も早く、橘には無い、危険な肉食獣のような魅力がある。だが篠宮は何も答えなかった。ここで思わせぶりな返事をしたりして、これ以上問題の種を増やしたくはない。 「……済まない。こんな風に力ずくで迫るなんて、ぼくらしくもない」  固く閉ざされた篠宮のくちびるを見つめ、エリックは唐突に手を離した。いつもの彼に似合わぬ、余裕のない仕草でドアを開け、すぐに出ていくよう眼で促す。 「資料は後で届けるよ。内容に特に問題はないと思うけど、いちおう確認しておいてくれ」  それだけ言い捨てると、エリックは素っ気なく扉を閉めた。  廊下に追い出された篠宮は、しばらく茫然と立ち尽くした。君を幸せにできるのは、ユウキだから。エリックの言った言葉が胸の中に甦る。それが真実だということは、誰よりも篠宮自身がよく分かっていた。  愛されて幸せだと思えば思うほど、やがて来る別れのことを考えて不安でたまらなくなる。だが、そんな心の内を誰に相談すればいいのだろう。そもそも世間一般では、新婚の頃は熱烈に愛し合っていても、次第に愛が冷めて希薄な関係になるのが普通だ。杞憂。要らぬ心配。取り越し苦労。今の不安を誰かに打ち明けてみても、そう言って笑い飛ばされるのが目に見えている。  不意に、ピンポンという澄んだ電子音がすぐ上の階から微かに聞こえた。エレベーターの到着音だ。  そうだ、今は仕事中だった。席に戻って、得意先からのメールの返信をしなければ。  慌てて気を取り直し、篠宮は階下に降りるため足早にエレベーターの前へ向かった。

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