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コスモスの揺れる道

 金曜日の夕刻。仕事を終えた篠宮は、退勤のチェックを済ませ、鞄を片手に一階の出入り口へ向かっていた。  秋が深まってきたためか、日没の時間も徐々に早くなり、定時である十八時を過ぎると急速に空が闇色を濃くしていく。灯り始めた明かりを見上げながら、篠宮はガラスのドアを抜けた。  正門に至るまでの花壇には、様々な花が植えられ、通る人々の心を和ませている。今の季節はコスモスだ。手入れの行き届いた白やピンクの花は、風が吹くたびに可憐に揺れ、これから帰路につく社員たちをそっと見送っていた。 「篠宮さん!」  唐突に名を呼ばれ、篠宮は驚いて辺りを見回した。コスモスの揺れる道の向こうから、篠宮のよく見知った人物である彼が、帰ろうとする人々の流れに逆行しつつ走ってくる。 「結城」  思わず走りだしてしまいそうになり、篠宮は慌てて自分を制した。こんなに大勢の人がいる前で、感動の抱擁シーンを繰り広げるわけにはいかない。 「良かったー、間に合った!」  篠宮の前まで来ると、結城は肩で息をつきながらも満足した様子で、こぼれんばかりの笑みを見せた。 「今日も直帰じゃなかったのか」 「もおー。今日は金曜日だよ? 独りで帰るなんて虚しいこと、できるわけないでしょ? 一緒に帰ろ?」 「一緒にって……それだけのために、わざわざ走ってきたのか」 「それだけって事ないでしょ。篠宮さんを放置しといたら、どんな変な虫が付くか分かったもんじゃないんだから。直帰でいいとは言われたけど、やっぱり篠宮さんと一緒に帰りたくて会社に戻ってきたんだ。どんなに忙しかろうが、金曜日は特別! 絶対に篠宮さんと二人で帰らなきゃ」  金曜日は特別。その言葉の意味を思って、篠宮は頰に血が昇るのを感じた。この後どちらかのマンションに行って、食事をしたり寄り添って睦まじく過ごしながら、一晩かけて愛を確かめ合う。金曜日は特別というのはそういう意味だ。自分たちが恋人同士になってから、ほぼ休むことなく暗黙の了解で続けられてきた、二人だけの特別な儀式である。 「とっ……とりあえず歩こう。こんな所で立ち話をしていては、他の人に迷惑だ」 「うん。えへへー、早く帰ろ? 篠宮さんに作ってあげようと思って、昨日のうちにいろいろ下ごしらえしておいたんだ。今日はテーブルの端から端まで、ぜんぶ篠宮さんの好物で揃えるからね! 楽しみにしてて」 「馬鹿……声が大きい」  会話の内容を誰かに聞かれ、やけに親密だと二人の仲を疑われるようなことはないか。そう思って辺りを見たが、帰る人々は近くの同僚とのんびり話しながら歩いているだけで、特にこちらを見咎める様子はない。  牧村係長補佐が近くを通りかかるのが見えたが、眼が合うと彼は口許になんとも言えぬ微笑を浮かべ、そっと素知らぬふりをしてくれた。有り難いと思う反面、そんな風に気遣われていることがとてつもなく恥ずかしく、篠宮は赤面した顔を伏せたまま足早に歩きだした。 「ね……篠宮さん、ちょっと痩せた?」  寄り添うように歩を進めながら、結城は微かに身をかがめて篠宮の顔を覗きこんだ。  眼と眼が合い、篠宮は余計に落ち着かない気分で視線を泳がせた。営業として大きなプロジェクトに関わってきたためだろうか。心なしか精悍になった結城の顔つきを見て、その男らしい魅力に心臓が早鐘を打ち始める。 「駄目だよ、食欲の秋なんだから。篠宮さんにはなんの不満もないけど、できればもう二キロくらい体重増やしてほしいかな。家に帰ったら、美味しい物いっぱい作ってあげる」  上機嫌そのものといった様子で、結城が思いきり相好を崩した。  頼もしくなったと思える面差しの中にも、自分にとって結城の魅力のひとつである、あの可愛らしさとあどけなさは変わらずに残っている。その事を知り、篠宮はどこかほっとした思いでつられて笑みを浮かべた。  ◇◇◇  天井に備えつけられた明かりが、男の一人暮らしとはとうてい思えない、見るからに値の張りそうなダブルベッドを皓々と照らしている。  シャワーで清めた身体をシーツに横たえ、篠宮は肩まで布団を引っ張り上げた。食事を済ませ、歯を磨き、風呂にも入った。後はここで結城が来るのを待つだけだ。 「ふ……」  なんとなく息苦しいような気がして、篠宮は右手で心臓の上を押さえた。妙に身体が火照っているのは、熱いシャワーのせいばかりではない。これから始まることへの期待に、胸が高鳴っているせいだ。  来週になって彼が海外出張に行ってしまったら、少なくとも二週間はまったく顔を合わせなくなる。しばしの間とはいえ、離れ離れにならなければいけないのだ。  別れを惜しんで、共に夜を過ごす恋人同士……結城のことだから、きっといつもに増して熱烈に求めてくるに違いない。その証拠として彼からはすでに『今夜は寝かせないから。覚悟しててね』という、実に意欲的なお言葉を頂戴している。  今夜は寝かせない。彼のその言葉を思い出しただけで、ぞくりと身体の奥に震えが走る。腰の中心が熱を持ち始めたのを感じて、篠宮は羞恥に頰を染めた。  始まる前から期待にここを硬くしているなどと知れたら、また結城に手ひどくからかわれるだろう。  結城が風呂から上がってくるまで、おそらくあと五分程度しかない。横向きになって腰を引き、篠宮は両脚の間が目立たないように態勢を変えた。これで布団を被っていれば、とりあえずひとめ見て分かるという事態だけは避けられる。  思いがけず興奮してそういう状態になってしまった時、自らを鎮めるには、別の事を考えて意識を逸らすのが有効だ。以前、ネットでそんな記事を見かけたことを篠宮は思い出した。その時は自分には関係ない事だとすぐに読み飛ばしたが、実際にこのような事態に直面してみると、少しは眼を通しておけば良かったと微妙に後悔する。  なにか別の事……そう考えた篠宮の頭の中に、きょう食べた夕食の情景が甦った。  テーブルの端から端まで、ぜんぶ恋人の好物で揃える。そう約束した結城の言葉は、嘘ではなかった。見た目にも豪華な鯛のアクアパッツァに、とうもろこしとベーコンのポタージュ。ポモドーロにジェノベーゼにカルボナーラという、彩り良い三色のパスタ。トマトとモッツァレラのカプレーゼ、焼き茄子とズッキーニのマリネ。ここのところ食が細くなっていた自分も、嘘のように食欲が湧いてくるのを感じた。こんなに料理上手な恋人がいるなんて、自分は本当に幸せ者だ。 「お待たせー」  背後から声をかけられ、篠宮は横たわったまま振り向いた。  布団の中で仰向けになりながら、今の下半身の状況を慎重に確認する。掛け布団に目立つ起伏がないことを確かめ、篠宮は安堵した。楽しかった夕食の時間に思いを馳せることで、こちらのほうはどうにか収まってくれたらしい。 「えへへー、篠宮さんー。良い子で待ってましたかー?」  嬉しそうに眼を細め、結城は篠宮の額にキスをした。声だけ聞けば恋人の甘い囁きだが、そのだらしない格好たるや、素っ裸に小さなタオルを巻いただけだ。  風呂上がりの胸許から、若い男の肌の香りが漂ってくる。今からこの胸に抱かれるのだと思うと、気恥ずかしい思いで一杯になった。 「あれ、篠宮さん。布団かぶっちゃって、どうしたの? 寒い?」 「いや……その、まあ……大丈夫だ」  掛け布団を眼の下まで引っ張り上げ、篠宮は小声で誤魔化した。今すぐ電気を消してくれというのも不自然だし、顔が赤くなってきたのを隠す方法はこれしかない。 「ほんと? なんか、いつもより眼がうるうるしてるし、おでこもちょっと熱っぽい気がするけど」  結城が心配そうに篠宮の顔を覗きこむ。熱っぽく眼が潤んでいるのは興奮しているからなのだが、幸いにもそれは見破られずに済んだ。

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