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愛という名の海

「浮気なんてするわけないじゃん。世界中の美男美女が束になってかかってきたところで、篠宮さんの魅力に較べたら石ころも同然だよ。篠宮さんこそ、俺が居ないあいだ浮気しないでよ」  同じ言葉を返され、篠宮は一瞬黙りこんだ。浮気の定義は人によって違う。エリックと二人きりで、密室にこもって話をしたことは浮気になるだろうか。橘と食事をして、モデルになる約束までしたことは、他の大多数の人から見ても浮気にあたる出来事かもしれない。  どんな事があっても、心だけはいつまでも変わらず結城一人のものだ。篠宮はそう自分の胸に言い訳をした。エリックの鮮やかな緑の瞳も、橘の奏でるピアノの音も、確かに魅力的だとは思う。だがそれはやはり、結城に対する想いとはまったく別種のものだった。 「私が浮気なんてすると思うのか」 「思ってないよ。言ってみただけ。さっきも言ったでしょ。俺、篠宮さんのこと信じてるもん」  結城がなんの疑いもなく自分を信じきっているのを見て、篠宮は罪の意識に身を苛まれた。  橘と連絡先を交換し、二人で何度も会い、来週には軽井沢にあるという彼の家へ行ってモデルを務めることになっている。来週の土曜といえば、結城は海外出張の真っただ中だ。男女のカップルならともかく、自分と結城のような関係の場合、相手に内緒で同性の家に行くなんて明らかに好ましくない話である。  いったい、自分はどうしたいのか。篠宮はもういちど自分の胸に問いかけてみた。結城を好きだという想いは変わらない。だが愛しいと思えば思うほど、彼を失った時の絶望が胸に迫り、このまま一緒に居てはいけないと感じてしまう。  結城から受け取ったクローバーの冠のことが、不意に頭の中に甦った。あのとき自分は、自らが裏切ることなど絶対に有り得ないと言った。自分が愛するのは、生涯かけてただ一人だ。  だが、もし彼と永遠に別れなければいけない時が来たら。死すべき定めとして生まれた以上、それは避けようのない事実だった。これ以上彼を好きになってはいけない。あの交通事故の一件以来、その思いは黒い影となって篠宮の心を苦しめ続けていた。 「ねえ篠宮さん。見送りに来てとは言わないから、今週末は日曜の夜まで一緒に居てよ。俺、篠宮さんと二人きりで過ごしたい。食べる物はあるし、足りない物があれば、近くのコンビニで揃えればいいよ。この部屋で、好きな時に眠って好きな時にご飯を食べて、好きな時にエッチするんだ。俺と二人で」  そこまで一息に言うと、結城は顔色をうかがうように篠宮の表情を覗きこんだ。 「そんなだらしない生活は駄目だって、怒る?」  朝も夜も関係なく、好きな時間に起きて好きな時間に食事を取る。普段の篠宮なら、この結城の願いを、いくら休みでも怠惰すぎると突っぱねただろう。 「あ……」  睡眠欲も食欲も、性欲さえ好きな時に満たしていいだなんて、まるで動物だ。それにも関わらず、篠宮はすぐに答えを返すことをためらった。 「ね、どう? ダメ?」  甘えるように手を伸ばし、結城がさらに問いかける。篠宮はその顔をじっと見つめた。  三日後には海外出張なのだから、食事や睡眠の時間に関してはきちんとした計画を立て、時差に備えたほうがいい。そう上司として恋人として、まともな返答をすることは簡単だ。だが結城の顔を見ていると、その真っ当なはずの答えがどうしても出てこなかった。  恋人が二週間の出張に出かけると聞いたら、普通の人ならまず浮気の心配をするところだろう。だが篠宮の胸に根を下ろしている、強迫観念といってもいいほどの不安と悩みは、そんな浅く生易しいものではなかった。  結城が自分の元を離れてしまったら、再び逢えるという保証はどこにもない。飛行機が落ちるかもしれない。なにか凶悪な犯罪に巻き込まれるかもしれない。自分の父のように、車の事故に遭うかもしれない。縁起でもない想像が次々と頭に浮かび、篠宮はそんな風に悲観的に考えてしまう自分に嫌悪感を抱いた。 「……今回だけの話だろう。特別に付き合ってやる」  眼をそむけ、篠宮は小声で答えを返した。 「ありがと、俺の我がまま聞いてくれて。篠宮さん大好き」  視線をそらした理由を、結城は単純に照れのせいだと思ったらしい。幸せそうに頰を緩め、結城は感謝の意を述べた。 「愛してるよ」  瞼を上げ、篠宮は黙って結城の眼を見つめ返した。 「愛してる……」  甘く優しいいつものキスが、そっとくちびるに落ちてくる。軽く腕を伸ばして彼の背を抱き締め、篠宮はその温かな口接けに身を任せた。 「んっ……」  結城の手が、肌の滑らかさを味わうように篠宮の胸許を撫でる。次第に激しくなっていく愛撫が、鎮まっていた官能の火を再び揺り起こした。 「あ……結城」  耐えきれずに声を上げ、篠宮は腰を擦りつけてさらに直接的な刺激を求めた。  来週は彼が不在だということも、これからの二人の運命も、他の男の存在も、すべて忘れていたい。今はなにも考えず、彼が惜しみなく与えてくれる、愛という名の海に溺れていたかった。

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