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毎日が空白
お土産いっぱい買ってくるからね。そんな台詞を言い置いて結城が出張に出掛けてから、数日が経った。
定時になったのを確認し、篠宮は静かにパソコンの電源を落とした。窓の外には、薄闇に染まり始めた空と、建物のガラスに映る夕暮れの太陽が見える。
今頃、結城は何をしているのだろうか。篠宮は考えるともなく考えた。自分と結城の間にある時差は十六時間だ。おそらく結城は、とうの昔に風呂に入って寝支度を整え、今頃は次の日に備えてベッドに入っている頃だろう。
「ああ、篠宮くん。もう上がりか。ちょうど良かった」
帰ろうと立ち上がりかけた篠宮に声をかけたのは、宴会好きとして社内でも有名な多田部長だった。
「実は駅の近くで、和風の創作料理を出す小綺麗な店を見つけたんだよ。雰囲気は良くて酒も美味いんだが、まだ出来たばかりで固定客が少ない上に、ちょっと裏通りにあって穴場中の穴場なんだ。昼間、雑談混じりにみんなにその事を話したら、今日にでも行ってみたいって話になってね。どうだ、君も行かないか。山口くんや天野係長も参加するそうだ。そんなに広い店じゃないが、十人くらいなら余裕でなんとかなる」
さすが営業部の長と言うべきか、気を引きそうな言葉を次々と並べ立てながら、部長が巧みに篠宮に誘いをかける。向かいの席にいた山口が、その後押しをした。
「行きましょうよ、篠宮主任。聞くところによると、めっちゃ美味い日本酒が揃ってるらしいですよ。だし巻きやお造りを肴にちびちび飲んで、締めは鯛茶漬け! 最高ですよ」
後輩からの熱心な誘いを聞き、篠宮は改めて考えた。どうせ家に帰っても何もないのだ。仕事の役に立てばと、以前から続けているビジネス英語の学習は、結城の邪魔が入らないせいで捗りすぎてしまっている。読みたい本もぜんぶ読んでしまった。その他には、趣味らしい趣味もない。仕事以外の用事など何もなく、毎日が空白だ。
「そうですね……特に予定もありませんし、私も参加させていただきます」
家に帰っても食欲はないし、するべきこともない。それならば会社の皆と過ごして、社員同士の親睦を深めたほうがまだ有益だろう。結局のところその考えに至り、篠宮は部長たちに向かって深々と頷いた。
「かんぱーい!」
仕事を無事に終えた後の、解放感に溢れた声が一斉に店内に響く。
目立たない端の席に座り、篠宮は小鉢に入ったお通しに箸を付けた。いつもなら忠犬のごとく隣に寄り添い、サラダだ串焼きだと甲斐甲斐しく取り分けてくれる結城が、当然のことながら今日は居ない。
「篠宮主任ー。今日は、世話焼きの奥さんが居ないんですね」
近くに座っていた女性が、明るい口調で声を掛けてきた。隣の商品企画部の社員で、特に懇意ではないが面識はある。たしか、他の女性たちからは『ミカ』と呼ばれていた。
「……奥さん?」
「もー、結城さんのことですよ。いっつも飲み会になると、篠宮主任の隣にぴったりくっついて、おしぼりだお代わりだって至れり尽くせりじゃないですか」
「そうそう! 私たちの付け入る隙なんて、まるで無いわよね」
「そっかー。結城さんって今、海外出張に行ってるんですもんね。チャンス! 鬼の居ぬ間に、私も篠宮主任に軽くアタックしてみようかな」
「駄目だめ! 自分のいない間にそんなことになったと知ったら、結城さんが怒り狂うわよ」
「それもそうだよねー、あはは」
話を聞きつけたあちこちから、同時に笑い声が上がる。女性たちの軽口を聞きながら篠宮は、以前は結城が居ないのが当たり前だったことを思い出した。
「篠宮くん。いつまでも独り身でいるから、女性たちがやきもきするんだよ。君はまだ早いと考えているようだが、二十六ともなれば、そろそろ結婚を視野に入れても良い頃だろう。どうなんだ。居ないのかい、良い人は?」
冷酒の入った盃を傾け、部長が上機嫌で問いかけてくる。
「いえ、まだ……結婚を考えるほどの人は」
篠宮は正直に答えた。自分が結婚するとしたら、相手は結城しかいない。だが、彼を選ぶわけにはいかないのだ。男同士だからではない。たとえ法律や倫理が認めたとしても、結城と結婚することができない理由。それは、自分が彼を愛しすぎているからだった。
「ぶちょおー。こっちにも来てくださいよぉ。お勧めのお酒、教えてください」
少し離れた席から、すでにほろ酔い加減になった同僚たちの声がする。
部長がそちらのほうに向かうのを確認してから、篠宮は携帯電話の画面にそっと眼を走らせた。結城からの連絡は何もない。仕事が忙しいのか、それとも生活時間が違うからと気を遣っているのか。日本にいる時は頻繁に寄越していた電話やメールも、彼が出張に出かけてからはほぼ皆無に近くなっていた。
このまま結城を忘れることができたら、どんなに楽だろうか。半ば捨て鉢になりながら篠宮は考えた。煙草でも酒でも、ギャンブルでもそうだ。断ち切るためには、まず近づかないこと。視界に入らないようにすること。それが第一だ。
もしも忘却の神がどこかに存在するのなら、どうかこの想いを忘れさせてほしい。不可能とは知りつつも、篠宮は胸の中でそう祈らずにはいられなかった。
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