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妄想の中の出来事

 真っ白な壁に囲まれた小さな部屋に、一台のベッドが置いてある。  ベッドのすぐそばには、波形のグラフを表示する機械が備え付けてあった。一定のリズムを刻むその線は、時おり大きく揺れながら、左から右へと流れ続けている。  こんなに間近で見たことはないが、この機械がどういう用途に使われる物なのか、篠宮もなんとなく見知ってはいた。医療ドラマなどでよく見かける、心電図モニターという奴だ。  篠宮の隣には、白衣を着た医師らしき男が沈痛な面持ちで突っ立っていた。  ベッドの上には、人工呼吸器を付け、身体中に電極を繋げた結城が横たわっている。その姿を見て、篠宮は即座にひとつの結論を下した。  なんの事はない。また、あの手の夢だ。こんな殺風景な小部屋に、ベッドと心電図モニターだけが存在するなんて有り得ない。ましてやそこに結城が居るなんて、さらに有り得ないことだ。 『結城』  固く閉じた瞼を開けさせようと、篠宮は声を出して呼びかけた。夢だということは分かっている。分かってはいても、否応なしに死を連想させるその光景は、篠宮の胸を著しく乱した。 『昏睡状態です。残念ですが、もう、お耳には届いていないかと思います』  十万人に一人といわれる症例。現代の医学では治すことができない。ここまで生き延びたことだけでも奇蹟だ。そんな医師の言い訳を聞き、篠宮は信じられない思いで結城を見つめた。  口許を覆う器具のせいで定かには見えないが、眼を瞑った結城の顔には、苦しみの表情は見られない。これが瀕死の重病人だなどと言われても、信じられるはずがなかった。 『嘘だ……』  結城の顔に覆いかぶさるように、篠宮はベッドに身を乗り出した。  医師はそれを止めなかった。もう諦めているのだろう。その振舞いが、篠宮の心をひどく苛立たせた。いやしくも医者と呼ばれる身なら、最後の最後まで望みを捨てず、死力を尽くすのが当然ではないか。 『……結城! 私だ! 聞こえているだろう!』  普通なら飛び起きるだろうと思うような大声を聞いても、結城は一向に眼を覚まさなかった。  微かにひそめられた眉が、時折ぴくりと動く。ディスプレイに描かれた曲線は、激しく揺れ動いていた。医療に関しては素人の篠宮でも判る、ひどい不正脈だ。  隣に並んだ医師が、暗い声で呟いた。 『全力を尽くしたのですが……もう、手の施しようが』  その言葉に、篠宮は眉を吊り上げた。患者が寝ている隣でそんな事を言うなんて、なんという無神経な医者だろうか。 『そんなはずないでしょう? こんなに若くて健康そうなのに……不治の病なんて。そんな事あるはずがない!』  これが夢だということも忘れ、篠宮は強い口調で言い返した。たとえ有りもしない妄想の中の出来事であっても、結城が自分の眼の前で死ぬなんて耐えられない。 『お気持ちは分かりますが』 『おまえなんかに解るわけないだろう!』  普段なら考えられないような暴言を吐き、篠宮は医師を押しのけて結城の身体に縋りついた。 『結城……!』  日に何度も点滴を打つためだろうか。結城の腕は、窮屈そうな器具でがんじがらめに固定されている。針の痕の残るその腕に、篠宮は荒々しく手を伸ばした。 『結城、眼を……眼を開けてくれ』  大好きだという愛の言葉と共に、自分を何度も抱き締めてくれたこの腕。  温かく滑らかだった彼の皮膚の表面は、今、ぞっとするほどに冷たくなっていた。 『結城!』  夢の中で、篠宮はその死の冷たさをはっきりと感じた。 『嫌……嫌だ! 結城! 結城!』  声を上げた瞬間に眠りから覚め、篠宮はベッドから跳ね起きた。 「はあっ……はあ」  大きく息をつき、汗で冷たくなった自らの身体を抱き締める。やはり夢だった。だが、夢だと言われても何の慰めにもならない。不快なものは不快だ。  とにかく、水でも飲んで少し落ち着こう。そう思って立ち上がる。台所に向かって歩き始めた篠宮は、棚の上で充電中だった携帯電話を何気なく手に取った。  片手で素早くボタンを操作し、見慣れた画面を開く。メールの受信を知らせるマークが付いているのを見て、篠宮は一瞬胸を高鳴らせた。もしかしたら結城からかもしれない。 「あ……」  さらに画面を切り替え、篠宮は落胆の溜め息を洩らした。残念ながら結城ではない。届いていたのは、橘からのメールだった。 『お願いしていたモデルの件、いよいよ明後日になりましたね。お引き受けいただいたのは嬉しいのですが、もしかしたらあの後でお気持ちが変わったのではないかと少し心配です。ご都合がよろしければ、先日お話ししたとおり、土曜日の十一時頃にお越しください。お待ちしています』  橘らしい丁寧な文章を読み終わると、篠宮は静かに画面を閉じた。約束の日が近づいてきたことを思って、確認のために連絡をくれたらしい。馴れ馴れしくなく、さりとて素っ気ないわけでもなく、適度な距離感を保っている。人の迷惑も考えず、入社初日に上司にプロポーズするような奴とは対照的だ。  今日はもう遅い。返事は朝になってから、通勤途中の電車の中で書けばいいだろう。そう思った篠宮は、再び携帯電話を棚の上に戻した。

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