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また来年
「お先に失礼しまーす!」
金曜日の夕方。定時になると営業部のあちこちから、仕事が終わったことを告げる挨拶の声が聞こえ始めた。
「ああ、お疲れさま」
静かにうなずき、篠宮は後輩の佐々木に挨拶を返した。新婚早々妻が懐妊して、佐々木の私生活はおめでた続きだ。普通の職場なら営業マンが定時に帰れることなどまず有り得ないが、この会社はシステム面を整え、業務の無駄を削ぎ落とすことでそれを可能にしている。佐々木や牧村など、家族思いの社員にとってはまことに働きやすい会社だろう。
「はあ……」
やり残した仕事がないか、机の上を隅々まで見回してから、篠宮は自らも帰るために席を立った。
今日、仕事でちょっとしたミスをしてしまった。得意先から必要と言われた商品の数を、一桁間違えて発注してしまったのだ。
受注確認の返信メールを見てすぐに気づいたため、なんとか事なきを得たが、過ちを犯してしまったという事実は変わらない。数だけは絶対に間違えまいといつも気を遣っているだけに、我ながらショックだった。
思えばここのところ、悪夢のせいでろくに眠れていない。これでは仕事でミスが出るのも当然だ。いつも同じ夢なら慣れもするだろうが、結城が命を落とすという一点を除けば、悪夢の内容はいつも違う。自分は意外にも想像力豊かだったのかと、篠宮は皮肉げに考えた。
日常生活に支障が出るほどではないとはいえ、このままでは先が思いやられる。精神科に行くか、あるいは専門家のカウンセリングを受けたほうがいいだろうか。そこまで考えて、篠宮は首を振った。薬だけ飲んでも根本的な解決にはならないし、いくらカウンセラーとはいえ初対面の人の前で、恋人が好きすぎて悩んでいるだなんて話したくはない。
そういえば、明日は橘の家に行く日だ。その事を思い出し、篠宮は帰りの電車の中で路線図を確認した。長野といわれると遠い気もするが、新幹線を使えば二時間もかからない。別に宿を取らなくても、その日のうちに帰ってこられるだろう。
十月の軽井沢といえば、紅葉が美しい頃だ。色鮮やかな樹々の葉が自分を出迎えてくれると思うと、仕事で落ちこんだ気持ちも少しは晴れるような気がした。
自分のことをずっとインドア派だと思いこんでいた篠宮だが、ようやく最近になって、実は外に出ることも嫌いではなかったのだと気づき始めていた。植物園に公園、そしてカナダの大自然。葉ずれの音が響く中を、結城と並んで歩くひと時は何よりも楽しく、心に安らぎを与えてくれる。
……また結城のことを思い浮かべてしまった。そのことに気がつき、いいかげん彼との恋愛に深入りするのはやめるべきだと、篠宮は心の中で自らを叱りつけた。
他の人になど眼もくれず、結城は自分だけを一心に愛してくれるし、料理だデートだと細やかに気を遣ってとろけるほどに甘やかしてくれる。だが、そんな彼に甘えきってしまうのは篠宮の本意ではなかった。
たとえ離れ離れになっても、二人で過ごした想い出を胸に、そこから先の人生を生きていけるようにしたい。それができないなら……別れるだけだ。
「……ねえねえリッ君。どこでご飯食べよっか?」
電車を降りて歩いたところで、すぐ近くから、カップルの片割れらしい若い女性の声が響いてきた。
篠宮の自宅付近は、元々は下町だが、最近では洒落た店も増え隠れた名店も多い。金曜日の夜だからか、駅付近では手を繋いだり腕を組んだりといった、仲睦まじそうな恋人たちの姿が多く見られた。
「あーオレ焼肉食いたい。すぐ近くに一軒あるんだけど、そこでいい? 半個室で雰囲気も良いし」
「うん! あたしも焼肉食べたい。行こ行こ!」
即座に賛成の声を上げ、女性は甘えるように男性の腕に縋りついた。
通常、付き合い始めて間もないデートで焼肉を選ぶことはない。いくら恋愛に疎い篠宮でもそのくらいは知っていた。一緒に焼肉を食べに行くということは、お互いに相手のことをよく理解し、かなり仲も深まった恋人同士なのだろう。
「あ、そうそうリッ君。このまえの旅行で泊まった旅館から、クーポン割引のお知らせが届いたんだよ。二十パーセントオフで、一年間有効だって。お得じゃない?」
「そうだなー。メシも美味かったし、良いんじゃないか」
「だよね! また来年行こうよ」
「まあ変に選んで気に入らない所に泊まるより、サービスが良くて気に入った宿に泊まったほうが良いよな。ああミナ、こっちこっち」
男性が慣れた手つきで彼女の腰を抱き寄せる。そのまま二人は、すぐそばにある焼肉店に入っていった。
うつむいたまま、篠宮はその横を黙って通り過ぎた。来年また旅行に行きたいと、あの二人は話していた。きっと世間では多くの恋人たちが、そうやって共に未来の夢を描きながら、毎日を楽しく過ごしているのだろう。
明日、来週、来月……来年。彼らはいま隣を歩いている伴侶が、その時にはもうこの世に居ないかもしれないと考えることはないのだろうか。そう思うと篠宮は、自分だけが通常では理解できない特殊な考えの持ち主であり、世界のすべてから切り離されているような気がしてならなかった。
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