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君らしくもない
駅の近くにある喫茶店で適当に夕食を済ませ、家に帰り着く。上着を脱いでハンガーに掛けようと思ったところで、ポケットの中の携帯電話が鳴った。
すぐに取り出し、画面を確認する。おそらく海外からと思われる、覚えのない電話番号だ。
出るべきかしばし迷ってから、篠宮は通話ボタンを押した。もしかしたら結城かもしれない。それを思うと、無視を決め込むわけにもいかなかった。
『……あ、篠宮さん?』
弾むように明るい声を聞いた瞬間、篠宮はほっとして胸を撫で下ろした。やはり結城だ。声から察するに、特に変わりはなく元気に過ごしているらしい。
「久しぶりだな」
何気なく口から出た言葉だったが、結城はそれを、なかなか連絡を寄越さないことへの皮肉と受け取ったようだ。たちまちのうちに慌てた声を出し、結城は唐突に謝り始めた。
『ごめんごめん! 実はこっち来てから、スマホの調子があんまり良くなくてさー。一昨日の夜、ついに電源が入らなくなっちゃったんだよね。仕方なく今、ホテルの電話から掛けてるんだよ。まあ会社の端末はあるから、仕事には支障ないんだけど……連絡できなくてごめんね』
結城からの連絡が来なかったのは、仕事が忙しいことに加えて、携帯電話が故障してしまったのが大きな理由らしい。恋人の存在を忘れていたわけではないのだと知って、篠宮は少しほっとした。
「別に謝るようなことじゃない。どちらにせよ、日本にいる時のように頻繁に連絡できないのは当たり前だ。仕事も忙しいだろうし、時差のこともあるからな」
『もー、篠宮さんクール過ぎ! 初めての大仕事でこんな外国に飛ばされたうえ、篠宮さんと繋がる大事な連絡ツールを失った俺の身にもなってよ……まあバックアップは常に取ってるから、中のデータは復旧できるっていうのがせめてもの救いだけどさ』
情けない台詞を吐いたかと思うと、気を取り直すように小さく笑い声を立てる。とりあえず健康面では問題なさそうだと知って、篠宮は安心した。
「仕事のほうは順調か」
『うん、仕事のほうはばっちり順調! 一日の仕事が終われば、普通に買い物行ったりテレビ見たりできるし、そこまで激務じゃないよ』
「そうか。それは良かった」
『そういえばさ。この前の夜、久しぶりにこっちの友達に会ったんだ。しばらく会わないでいるうちに、誰々が結婚するだの、もう子供がいるだのなんて話もちらほら出てきてさ。「おまえも決まった相手はできたのか、カナト?」なーんて訊かれたんだよね。えへへー。もう、よくぞ聞いてくれましたと思って。めちゃめちゃ美人で可愛くて、最高の恋人ができたって自慢しちゃった。そしたらあいつら、写真見せろってうるさくってさー』
無邪気に話す結城の言葉を聞き、篠宮は背すじが凍りつくのを感じた。いくら世間の理解が深まってきたとはいえ、恋人という名目で同性の写真を見せられては、その場にいる人も反応に困るだろう。
「見せたのか……写真」
『見せないよ。そんなん見せたら、あいつら全員、間違いなく篠宮さんに惚れちゃうもん』
自信に満ちた、愉快そうな笑い声が電話越しに聞こえる。
「そんな事あるわけないだろう、馬鹿」
『あるわけ無いなんて、それこそそんな事あるわけないでしょ! 篠宮さんは誰よりも綺麗で可愛くて、俺の大切な恋人で……』
それまで耳許で大きく響いていた結城の声が、急に消え入るように小さくなった。
『あ……』
聞こえるか聞こえないかの呟きと共に、唐突に会話が途切れる。二人の間に不自然な沈黙が流れた。
「……結城?」
回線の調子が悪いのだろうか。そう思って、篠宮は確認のために彼の名を呼んだ。文明と科学が日々進歩しているとはいえ、相手は海外にいるのだ。なんらかの事情でいきなり電話が切れてもおかしくはない。
『篠宮さん……逢いたいよ』
心なしか湿っぽい、別人のように沈んだ結城の声が返ってきた。
「結城……」
逢いたい。その言葉が篠宮の胸に突き刺さった。
「……どうしたんだ、急に。君らしくもない」
自分に言い聞かせるように、篠宮は叱咤の言葉を返した。逢いたいと思うのは自分も同じだ。だが、好きだという想いに流されて付き合うのは、本当にお互いにとって良いことなのだろうか。それを思うと、逢いたいと率直に口にすることが躊躇われてしまう。つまらない理屈や世間体など考えず、自分の想いを素直にさらけ出せる彼を羨ましいと思った。
『だって……』
「泣き言を言うな。あと一週間だろう。我慢しろ」
そう突き放しながら、篠宮は腕時計の針に眼を向けた。ホテルの電話には、独自のサービス料がかかることがほとんどだ。調子に乗って何十分も話していると、後でびっくりするような料金を請求されることになる。
「料金が気になる。切るぞ」
無情な声で呟き、篠宮はボタンを押して強引に通話を終わらせた。
「……はあ……」
挨拶もなしにいきなり切るなんて、いくらなんでも非常識すぎただろうか。深く溜め息をつき、篠宮は手にした携帯電話を無造作にテーブルの上に置いた。
結城と逢えないのは寂しい。だが篠宮はその寂しさの中に、微かな安らぎを感じていた。もしかしたら、これが自分にとっては理想の形なのかもしれない。そんな風にさえ思えた。
もし自分が他の伴侶を見つけ、結城の元を去っていったら。彼はきっと、一時的に自暴自棄になるだろう。だが、結城はまだ若い。これから先、自分などよりもっと良い人にめぐり逢う可能性は無限にある。やがては親の勧める結婚をして、それなりの幸福をつかむに違いない。
結城が他の誰かと結婚する……そう考えると、身を切られるように辛 い。それでも、彼の死を目 の当たりにする苦しみに較べたら遥かにましだった。たとえ自分とは結ばれなくても、彼はどこか知らない場所で、誰かと幸せに暮らしている。そう思えるだけで充分だ。それ以上のことを望んではいけない。
テーブルに置いた電話が、もういちど鳴った。
結城が、性懲りもなく掛け直してきたのか。一瞬そう思ったが、実際のところは違っていた。この番号は……たぶん、橘からの電話だ。
「はい」
『ああ、篠宮さん。済みません、今お話ししても大丈夫でしょうか』
篠宮がやや緊張しながら電話に耳を当てると、思ったとおりそこからは橘の声が聞こえてきた。
「ええ。仕事が終わって、いま家に帰ったところです」
『そうですか、それは良かった』
橘の朗らかな笑い声が聞こえる。篠宮もつられて微かに笑みを浮かべた。
「こうして電話でお話しするのは初めてですね。わざわざお電話いただいたということは、何か急ぎのご用事なのでしょうか」
『いえ、用事というほどの用事では……お約束の日がいよいよ明日になりましたから、体調にお変わりがないか確認したかったんです。黙って座っているだけとはいえ、モデルの仕事はなかなかに大変ですからね。それと……その』
何か含むところがあるのか、橘が語尾を濁して言い淀む。篠宮は黙って次の言葉を待った。勿体ぶらずに早く言ってくれと、笑顔で催促できるほど親しくはない。
深く息をつく音が聞こえたかと思うと、橘はやがて意を決したように言葉を継いだ。
『その……用事というわけではないのですが。単に、あなたの声が聞きたかった……そう申し上げても構いませんか?』
声を聞きたい。結城から言われた時はくすぐったく幸せな気持ちになれるその言葉が、今はなんの感情も呼び起こさず、心の表面を上滑りしていく。橘は自分に好意を寄せている。篠宮は今さらのようにそのことを思い出した。
異性か同性かにかかわらず、経済的に裕福な人からの好意は、いくらあっても邪魔になるものではない。要領のいい人間なら、適当に気を持たせるような台詞を述べて、この場をしのいだだろう。だがいくらそう思ってみたところで、生まれつき真面目すぎるほど真面目な篠宮に、複数の男を手玉に取るような真似ができるはずもなかった。
「あの……橘さん。ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
故意に話をそらし、篠宮は橘の問いにはっきり答えることを避けた。
『ご質問でしょうか。なんですか、改まって』
微かに笑いながら、橘がどこまでも柔和な口調で返事をする。その優しさに勢いを得て、篠宮は普通であれば絶対に口にしないような、不躾な質問を彼にぶつけた。
「私の知人が、あのカフェの近くに住んでいるんですが……その人がこう言っていたんです。ル・プレジールというカフェでピアノを弾いている、眼鏡を掛けた三十代くらいの男性が、いつも若い男を取っ替え引っ替え連れて歩いていると』
エリックの話していたことは、果たして真実なのか。確認したところで、特に何か益があるわけでもない。だが聞いた話をうやむやのままにしておくのは、篠宮の性 に合わなかった。ここできっぱりと否定してもらえれば、やはりエリックの思い違いということになり、自分の気持ちも落ち着く。
『眼鏡を掛けていて三十代……特徴だけ聞けば、橘さん、あなたに似ているような気もします。その男性というのは、本当にあなたのことなんでしょうか?」
『それは……』
いきなりの質問に面食らった様子ではあったが、篠宮の予想に反して、橘はその事実を素直に認めた。
『そうですね。あなたのお知り合いが見かけたという男は、おそらく、私のことで間違いないと思います』
「では、あの……済みません、こんな言いかたはしたくないのですが。若い男を、その……次々と取り替えているという噂も、本当なのでしょうか」
『それに関しては少し言い訳させてください。その若い男というのは、たぶん、私の絵のモデルになっていただいた方たちです。でも、まあ……そう思われたのも無理はありませんね。彼らの本職はモデルではないんです。本来の職業は、いわゆる、その……男娼といわれるお仕事ですから』
「だっ、だんしょ……!」
予想もしていなかった単語を聞き、篠宮は驚いて電話を取り落としそうになった。男娼といえば、金と引き換えに身体を売る男性たちのことだ。とはいえ、そういった職業を否定する気はない。需要があるから、供給もあるだけの話だ。
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