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第2話

 城下町から馬を走らせて一時間ほどかかる森の中に、ラウールはひとりで暮らしていた。  八年前、二十四歳という若さで近衛騎士の団長を務めていた彼の技量と人望は、竜退治の偉業を成したことで生きながら伝説となるほどに高まった。望まなくとも王城に居室を与えられ、厚遇されてしかるべし男が、褒美として王に望んだのは王都から離れた森だった。  猟師でさえめったに訪れることのない場所を終の棲家と決めた時、人々は驚いた。国を救った騎士がなぜ、森の中に居を構えるのかと。  あの土地を与えてほしいと望んだラウールに、王をはじめとした人々は王宮ほどではないにしろ立派な屋敷を建設するつもりなのだと考えた。豊かな森を切り開き、王城の守りとして多くの騎士を従えて住まうのだと。  だが、人々の思惑に反して、ラウールが建設したのは猟師の山小屋に似た二階建ての木造の家だった。どっしりと頑丈ではあるが、屋敷には程遠い。  いったいなぜと、誰もが首をひねった。実際に問いただした者もある。偉業を成し遂げたのだから、ふさわしい住居と富を得るべきだと。 「俺には、これが相応なんだ」  穏やかに答えたラウールは、近衛騎士から外れたいとも願い出た。有事の際は駆けつけるが、自由が欲しいと。  人々はラウールの願いを、激しい戦いの後で、心身ともに疲労しているからだと認識した。国のはずれまで出兵し、竜を退治してきたのだから無理もない。近衛騎士でありながら、腕を見込まれて遠征した彼は、さぞや疲弊していることだろうと。  武勇伝を聞きたがる人々に、わずかな笑みを浮かべて首を振る態度も、彼がひどく消耗しているのだと人々に思わせた要因だった。  疲れていたのは、事実だ。王城の中心で不自由のない暮らしをしていた人間が、長旅の間に粗末な寝床や野宿などを経験し、道中で出くわす魔物を蹴散らして、他国から追われてきたと思しき竜を退治しなければならなかったのだから。  旅の間に国の様子をつぶさに見たラウールは、地方の民の暮らしを詳細に書き記した。それを見た部下が、ラウールは民と同じ生活を望んでいるのだと、どこか誇らしげに語った。また、貧しい村に立ち寄った時、ラウールが顔をゆがめた姿を気に留めていた部下は、国民こそ国の礎だと、己の褒美を貧しい村に分配するため、粗末な家にしたのだと語った。  どれをもラウールは否定せず、また、肯定もしなかったので、彼は人格者だと称えられた。乞われれば騎士たちに稽古をつけもするし、人付き合いの頻度は減ったが、誘われれば今まで通りに交流を行っていた。  だが、一年、二年と経過していくうちに、ラウールを見る人々の目が変わってきた。三年目を過ぎた頃、尊敬が畏怖へと変化した。竜を殺した騎士は、竜と同じ恐ろしいものとして扱われるようになった。だからラウールは最低限の買い出しのほか、町に行くことも城に出向くこともしなくなった。それが、五年前のことだ。 (人は、変わる)  ラウール自身も、あの旅で変わってしまった。 (あれは、人のままでは成し得ない事だった)  だからラウールは、己を獣と思って魔物に挑んだ。竜の前に出る頃には、野性が四肢に漲っていると感じていた。  帰還したラウールは、精悍になったと言われた。彼は己の皮膚の下に抑えがたい激しい情動が渦巻いているからだと受け止めた。 (俺はもう、以前のようには生きられない)  美貌を謳われる、子を成してなお乙女の透明感と清らかさを失わない王妃ジーヌの瞳に、獣となった己を映したくはない。竜の血を浴びてから、どうしようもないほどに猛る野性に襲われる時がある。森の中ならば、いくら暴れても問題はない。人から離れ、竜の呪いとも呼べる情動を抱えながら生きていこう。  それが、ラウールが森に住むと決めた理由だった。 「五年もすれば、俺のことなど誰も忘れてしまうと思ったんだがな」  頬をゆがめて、ラウールはカップに口をつけた。中身は、先ほどまで彼の体を蹂躙していた美麗な青年、ミクリアが土産に持ってきた蜜酒だ。それを湯で薄く割って、味わっている。  情事の後、ミクリアが去ってからほんのりと甘みのある酒を味わうのが日課となっていた。  そう、日課だ。  ミクリアは毎日、昼前に馬を走らせてやってくる。ラウールの獰猛な情動を発散させ、自身の想いを満足させるために。 (ずいぶんと、好かれたものだ)  狂気に近い彼の好意を、ラウールはどう受け止めていいのかわからなかった。初めてここを訪れた時、ミクリアは純粋に国を救った英雄に剣の手ほどきを受けたいと願っていた。身なりは下級騎士だったが、立ち居振る舞いや乗ってきた馬の質から、高貴な血筋の者だとひと目でわかった。 (何より、似すぎている)  彼の母親、王妃ジーナにミクリアは瓜ふたつだった。ラウールが彼と最後に会ったのは、この森を王に願った八年前。ミクリアがまだ十二の年だった。竜退治の報告をした折に、王と王妃の間に立って輝く眼差しを向けてきた少年が、これほど立派に育ったのかと目を見張った。  稽古をつけて欲しいと願われ、自分の役目ではないと断り、けれども懐かしさに流されて家に入れて茶を振る舞った。翌日も、その翌日もミクリアは現れて、王都の様子を語っては帰っていく。  人が恋しくなっていたのだろうか。いつしかラウールは彼の来訪を楽しみに待つようになっていた。 (それが、間違いだった)  グッと蜜酒のお湯割りを煽って、ラウールは家を出た。明るい日差しに包まれている森の中を進み、川を目指す。澄んだ川は広さも深さも申し分なく、水浴びに適していた。  手早く服を脱いで、ざぶざぶと川に入れば銀色のきらめきが水中に走った。ラウールの訪れに、魚が驚いて逃げていく。たわむれに追いかけるふりをしながら泳ぐラウールは、水面に顔を向けて、金の粉をまき散らしたような川面の輝きに目を細めた。  手を伸ばしても掴めない、傍にあるのに触れられない。  王妃ジーナはラウールにとって、そういう存在だった。恋ではない。尊崇に近い愛情を抱えていた。王への忠誠心や騎士としての矜持もあったが、危険な任務に志願したのは、彼女のまなざしに映る世界を、和やかで美しいままにしておきたかったからだ。 「っは」  水面に顔を出して、しばらく泳いでから体を手のひらで擦った。あちらこちらに赤い花弁に似た痣が散っている。薄くなっているものもあれば、鮮やかなものもある。ミクリアは、自分の所有物だと示したいのか、遠慮なくラウールの肌に吸い痕を残した。  目を細めて痣をなぞったラウールは、川から上がって草の上に寝転がった。目を閉じれば、水に濡れた肌に触れるかすかな風を感じた。  うららかな昼下がり。母に似て楚々とした透明感をまとった王子が、昼日中から竜殺しの騎士を性的になぶっているなど、誰が想像できるだろう。 (ミクリア様が俺の所へ来ていることは、承知なされておられるはずだが)  王子が無断で供も連れずに数時間も行方をくらますなど、できはしない。行き先は知られていると考えて間違いないだろう。 (周囲がよく、許しているな)  つまり、とても平和なのだと結論付けて、ラウールは軽く頬を持ち上げた。竜を退治できてよかった。この国を――ラウールにとって女神に等しい王妃ジーナの愛する世界を守れた自分を、誇りに思う。結果として、人々と離れて暮らさなければならなくなったとしても、後悔はしていない。  しかし、ミクリアに抱かれるようになるとは想像すらできなかったと、ラウールは鼻を鳴らす。 (想像できなくて、当然だ)  あれほど美麗な青年が、美女とは対極にある偉丈夫に欲情するなど、誰が予想できただろう。  ラウールは、彼に抱かれることになった経緯を脳内でなぞった。

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