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第6話
体は重たいくせに、浮遊感に包まれている。
奇妙な感覚に目を開けたラウールは、深い藍色に眉をひそめた。どうやら眠っているうちに、夜になっていたらしい。目の奥に力を込めて闇を透かし、ベッド脇のチェストに置いてあるランプに火を点けた。
ボウッと温かなオレンジが室内の藍色を押しやって、浮かび上がった水差しに手を伸ばす。グラスに水を注いで飲み干し、息をついてベッドから下りたラウールは、素足のままで床を踏み、窓を開けた。
宵闇に浮かぶ暗い森は、星明りの音が聞こえそうなほどに静かだ。見下ろした先に畑がある。畑の四方には杭が打たれて、鳥獣除けの網が張られていた。
「あいつ」
ひと段落して、網をかける前に休憩をした。薪に腰かけて自慰を行い、途中でミクリアが現れて、野外で痴態を繰り広げた。重い体を引きずって、家に入ったところまでは覚えている。
ミクリアは、事後の始末ついでに畑に網をかけて帰ったのだろう。王子でも網のかけ方は知っているのかと、皮肉っぽく頬をゆがませた。
窓から離れ、ランプを持って階下に移動する。テーブルの上に布をかぶせられた何かがあった。近づいて布を取れば、パンとチーズ、ハムの乗った皿があり、手紙が添えられていた。
『食品棚に蜜酒と果実酒を置いておきました』
フンと鼻を鳴らして、暖炉に火を入れる。食品棚に行き、果実酒の瓶を取ってテーブルに戻った。イスに座って瓶のまま果実酒をあおり、パンにハムとチーズを挟んでかぶりつく。
あっという間にたいらげたラウールは、暖炉の火を消すと二階に戻り、下着とズボンを身に着けて、森に入る足ごしらえをした。腰に剣を下げて、ボウガンを手にする。縄を腰に巻き付け、ナイフをベルトに挿して家を出た。
空を見れば、今にも折れそうな細い月が星々を従えて浮かんでいる。儚い輝きは木の葉に遮られて、森の中まで届いていない。視界はほぼ暗闇となる先へ、迷うことなく踏み出したラウールは、神経を研ぎ澄ませて獣の息遣いを探した。
多くの獣が寝静まる時刻に、活動を開始するものもいる。体の隅々まで意識を行き渡らせて、草を踏むラウールは人という種類の獣になっていた。
寝静まったと見せかけている森にひそむ呼吸を探り、慎重に奥へと進む。鳥の気配を感じたが、ラウールが求めている獲物ではない。
しばらくして視界が開け、川に出た。昼間と変わらぬ速度で流れ続ける川の水が、夜のかすかな光を含んで輝いている。生き物のすべてが水を求める。ここは森に住む生き物たちにとって、重要な場所だ。
息をひそめて、ラウールは獲物が来るのを待った。微動だにせず木の幹と同化する。
時間の感覚を忘れそうになるほど長く待ち続けたラウールの目が、目的の獣の姿を捕らえた。
足音を立てずに草の上を移動し、川岸の岩に飛び上がったのは、しなやかな肢体を持つ巨大なヤマネコだった。体調はおよそ一メートル半。美しい青味がかった灰色の毛並みをしている。
ヤマネコは周囲を見渡すと、川面に首を伸ばして水を舐めた。揺れる尻尾が警戒を緩めていないことを示している。
音を立てないよう、慎重にボウガンを引き絞って狙いを定めたラウールは、水を飲み終わったヤマネコが顔を上げる瞬間を狙った。
ヒュッと鋭く空気が切り裂かれ、矢がヤマネコの眉間に吸い込まれた。ゆっくりと倒れるヤマネコに向かって、ラウールは地を蹴った。
森の奥から別の獣が数頭、ヤマネコに向かって突進する。走りながら剣を抜いて、直角に方向転換をした。気づいた獣も標的をラウールに変更する。相手は狼だった。うなりを上げて牙を剥く相手の喉元を切り裂いて、その陰から飛び掛かってくる一頭の牙を跳ね上げる。次に襲ってきた一頭の腹を蹴り上げ、わずかに遅れて跳躍した一頭の顎を叩き、剣を振るった。
ヤマネコが警戒していた狼の小さな群れも、全て倒したラウールは剣を振って血を払い、鋭く息を抜いて周囲を探った。血の匂いにつられて、他の獣あるいは魔物がやってくる気配はなかった。
川で剣を洗い、ナイフを取り出して獲物の処理を手早く終えると、腰の縄を解いて収穫物をひとつにまとめた。
獣の皮は高く売れる。そろそろ町に出て不足しているものを手に入れなければならない時期だった。剣もそろそろ新しいものに買い替えたいし、服も古びてきた。自給自足で手に入れられない物を贖うために、金が要る。
(これだけあれば、足りるか)
チーズや果物、酒類はミクリアが手土産として持ってくる。だが、それを当てにしたくはなかった。
(いつかは飽きられる)
何より、彼が来るものと刷り込まれたくはない。
(相手は王子だ)
常に来られる立場ではないのに、日課として通ってくるなど異常すぎる。
(明日はミクリアが来る前に町に出て、夜になるまで過ごすとするか)
考えながら帰宅したラウールは、湯を沸かして蜜酒を注ぎ、チビチビと口にしながら夜明けを待った。
日が昇ると掃除がてら必要なものは何かを確認し、昨夜の収穫を麻袋に入れて出発した。
馬があれば早いのだが、持ってはいない。背に荷物を担いで森を抜け、町へと進む。
ここ数年、すっかり草に覆われて消えていた轍の跡が、馬の蹄に削られて新たな道になっていた。
(あいつは、いつも馬を走らせて来ていたのか)
力強く蹴られ続けた草が剥げて、ほんのりと道を形成している。王城を抜け出して来ているのだから、馬を駆るのは当然だと考えたラウールの胸奥が、ほんのりと温もった。
(うれしいのか、俺は? いや……人の往来が消えて久しかったから、訪ねてこられたという事自体を無意識に喜んでいるだけだ。それなりに、人恋しかったんだろうな)
他人事のように考えながら道を進んだラウールは、すっかり日が昇り、店々が開店する頃に町に到着した。
すぐに馴染みの買い取り店に向かう。
「やあ、久しぶりだな。ひと月ぶりくらいか」
恰幅のいい店主に愛想よく迎えられ、ラウールは笑顔を浮かべた。
「ああ。変わりないか」
「良くも悪くも変わっていないさ。まあ、平和が一番って事だな」
ラウールよりも年かさの店主は、持ち込んだ獣の皮を確認するとコインを出した。
「少し、多くないか?」
いぶかしんだラウールに、店主がニヤリとする。
「運び賃だ。森からここまで、疲れただろう。それでうまい酒でも飲んでくれ」
朗らかな声に礼を言うと、寒い時期が来る前にもっと毛皮を仕入れておきたいと注文を受ける。
「必要以上に狩るのは、好きじゃない」
「相変わらずだな。まったく、もったいない話だよなぁ。英雄として語られているっていうのに、本人は森でわびしく暮らしている。若い者の中には、竜退治ははるか昔の物語だと思っているヤツもいるんだ。あんたはまだまだ現役の騎士として、やっていけるのになぁ」
ため息をつく店主に、いいんだとラウールはゆるくかぶりを振った。
「竜退治なんて、伝説になってしまったほうがいい。俺も過去の遺物になって、民が平和に慣れるのが一番だ」
「だから、森に移り住んだのか? いくらでも褒美をもらえて、誉れ高い人生を送れたってのに」
「何度も言っているだろう? もう疲れたんだ。引退には早い年かもしれないが、今の生活は気に入っている。自由という最高の贅沢を満喫しているんだ」
「騎士の規律は厳しそうだからなぁ。まあ、竜なんて大物を仕留めたんだ。燃え尽きたっておかしくはないが」
「有事の際は、また騎士として働くさ。俺が用済みのままでいられる日々を、祈っておいた方がいい」
「そりゃまあ、そうだが……誰か、訪ねて行くヤツはいるのか?」
案じ顔の店主に、ミクリアの姿を思い浮かべながらラウールはうなずいた。
「伝説の騎士に稽古をつけてほしいとやってくる元気な若造が、な」
「気概のある若造に、手ほどきをしてやっているのか」
「まあ、そんなところだ」
「なら、よかった。ついでに若造の姉でも妹でも、いるのなら紹介してもらえ。嫁さんをもらえば、生活が華やかになるだろうし、張りも出るんじゃないか」
「森に住みたいという、変わり者がいるものか」
「魔女になりたがっている女なら、大喜びだろうな」
互いに親しみのこもった笑い声を重ねて、ラウールは店を後にした。
街の様子を探るには、大勢が集まる場所がいい。中央の市に足を向けて、人の流れに紛れ込んだ。
もともと騎士のラウールは、庶民の中に親しい者は少なかった。いるとすれば、先ほどの店主のように、常連となっている店の者くらいだ。交流をしていたのは、貴族か騎士仲間がほとんどだった。
簡素な服を着て歩いているラウールを、通りすがる人々は傭兵か猟師、あるいは力仕事を生業にしている者と見ているだろう。
気楽な気分でにぎわう市をうろついて、平和が維持されていることに頬を緩める。手近な食堂に入って酒と適当なツマミを注文し、人々の声に耳を傾けるが物騒な話題は出てこない。
(いいことだ)
ちらほらと農作物や家畜に獣の被害があったと耳にするが、日常の延長程度の危険で、猟師や区画騎士団で対応できているらしい。
喉を鳴らして酒を飲み、レモンと魚のフリッターをつまむ。必要なものを購入する前に、人々の暮らしぶりを観察するのが、ラウールの楽しみでもあった。
守れたものを確認し、過酷な旅であり戦いでもあった過去を肯定するのは、心のどこかで変わってしまった生活に不満を持っているからだろうか。
竜が現れなければ、変わらず王城に務めていた。睦まじい王と王妃の傍にあって、誇りを胸に明るい道を進んでいた。ひとり寂しく深い森で暮らす未来が待っているなど、想像すらしていなかった。
(必要なことだった)
自分の人生と引き換えに、国中の人々の未来を守ったのだと誇らしく思っていると、声をかけられた。
「ラウール様」
ひそめた声に首を向ければ、顔見知りの使用人がいた。
「ああ」
顔をほころばせたラウールに、初老の使用人が言葉を続ける。
「よろしければ、いらっしゃいませんか? 主人が喜びます」
「お前の独断か?」
いいえと首を振られて、ラウールは腰を上げた。使用人がテーブルに金を置く。呼んで来いと言われたのなら、遠慮をするほうが失礼だ。無言で軽く首を動かして、礼を伝えた。
「こちらへ」
導かれて町を抜け、貴族の住まう区画に入ると馬車が待っていた。乗りこんでしばらく走り、連れていかれたのは立派な屋敷だった。
重厚な木の扉が開かれて、使用人たちが揃ってラウールに頭を下げる。片手を上げて応えたラウールは、二階のティールームに案内された。
「久しいな、ラウール」
茶色の髪のたくましい男が、なつかしそうに緑色の目を細めた。満面の笑みで両腕を広げた彼に、ラウールも腕を広げて応じた。抱き合って背中を叩き、互いの健康を確かめる。
「背中の筋肉が、また大きくなったんじゃないか? ラウール」
「ディアスこそ、腰回りがたくましくなった」
「太ったと言いたいのか?」
「まさか」
軽い笑いを交わして、促されるまま席に着いたラウールの前にカップが置かれ、紅茶が注がれる。
「酒のほうがよかったか?」
「いや。おまえはこれから、任務があるんだろう? 俺だけ飲むのは気が引ける」
「任務と言っても、訓練をつけるだけだ。本来なら、おまえがしているはずの仕事だよ」
軽く肩をすくめたディアスに、フフッとラウールは鼻を鳴らした。
「いつまで同じことを言い続けるんだ? ボケるには、まだ早いぞ」
「そっちこそ、隠居をするには早すぎる」
テーブルにチーズとハーブのタルトが出される。互いに手を伸ばしながら近況を報告し合った。
「西の森から魔物が出てきて、畑を荒らした。村の豆畑は半分ほど、やられたらしい」
「さっき食堂で聞いた。今年は豆が不足するだろうな」
「飢餓が起こるほどの被害じゃないから、大丈夫だろう。被害は一村だけだったからな。被害に遭った農家には、見舞金が出ている」
「なら、心配はないな」
「つまり、平和だ」
「でなければ、俺が困る」
「万が一の場合に備えて、体は鍛えているんだろう?」
ディアスの視線がラウールの盛り上がった胸筋やみっしりと太い二の腕をさまよった。
「森にいれば、鍛えようと思わなくとも自然と筋肉がつく。獣を狩るために、必要だからな。まれに魔物も相手にする」
「魔物といえば、王子が外出中に出くわしたそうだ」
「ほう?」
「遠乗りに出かけた際に、魔物が現れたらしい」
ミクリアが自分の所に通っているとは、知らないらしい。ラウールは初耳を装う事にした。
(遠乗りと言って、出てきているのか)
知りたくて、ラウールは問いかけた。
「王子はよく遠乗りをするのか?」
「毎日だ。庶民の暮らしを知りたいからと言って、粗末な服に身を包んで昼前に出かけていく」
「ひとりでか?」
「そうだ。おまえは王子が子どもの頃に森に移り住んだから知らないだろうが、剣術や馬術などに熱心でな。見た目は王妃によく似ているが、おっとりとした王妃とは真逆と言ってもいいかもしれん。なかなかに勇ましい」
「民の暮らしに興味があるというのは、いいんじゃないか? 民を第一に考える王は、いい王だ」
「その通りだ。あの方はいい王になるだろう。だが、志が高すぎて困ってもいる。そろそろ婚約者を決めてもいい年頃なのだが、まだまだ自分は未熟だと言って、断り続けているんだ。俺は、ひそかに想う相手がいるんじゃないかと、睨んでいるんだがな」
ドキリとラウールの心臓が跳ねた。緊張に心を硬くしたラウールの頬が、わずかにこわばる。
「なぜ、そう思う」
「決まった時間に遠乗りに行くのは、誰かに会いに行くためだとは思わないか?」
茶目っ気たっぷりにウインクされて、ラウールは苦笑した。
「相変わらず、恋愛が好きなんだな」
「恋愛が好きなんじゃない。すばらしい出会いが好きなだけだ。王子には、すばらしい女性と恋に落ちてもらいたいと望むのは、俺だけじゃないはずだぞ」
かすかに胸を痛ませて、ラウールは鼻を鳴らした。
(真実は、俺に会いに……いや、俺を犯しに来ていると知ったら、どんな反応をされるだろうな)
「政務の間に取れる時間が、そこしかないからだろう」
罪悪感に似た胸の痛みを隠して、ラウールは部外者を装った。
「ほかにもある。必ず手土産を持っていくんだ。まあ、聞くところによると、蜜酒の小瓶と少量の食料らしいが」
「遠乗りの休憩に食べるためじゃないか?」
「ひとり分には、少し多いんだ」
「たまたま出会った誰かと、分け合うのかもしれないぞ? 貧しい家の者に、施しとして与えているのかもしれない。あるいは、旅人を装うために、そうしているか」
ふうむとディアスが顎を撫でる。
「女性に贈り物をするのなら、髪飾りのひとつでも持っていくだろう」
だから違うとラウールが言えば、ディアスはなおも持論を続けた。
「だが、相手が貧しい家の娘だったらどうする? 食料を持って行けば、喜ばれるぞ。一度に多くの物を与えるよりも、継続して少しずつであれば、相手も大げさには捉えないはずだし、庶民の恰好をしているのなら、なおさら不自然にはならないだろう?」
「どこまでも恋愛に結び付けたいらしいな。まったく、おまえらしい」
「騎士は、麗しい女性を守るために存在するんだ。おまえだって、そうだろう」
「俺は、民が平穏であればいいと考えている」
「王妃のためじゃないのか」
目を大きく開いて、わざとらしく驚いてみせるディアスに苦笑する。
「俺だけじゃない。誰もが王妃に憧れていた。違うか?」
「違わない」
肩をすくめたディアスに向かって、カップを持ち上げて乾杯のしぐさをした。
「王妃と、彼女の愛する王。そして、王が守りたいと望んでいる民のために」
ディアスもカップを持ち上げて乾杯の仕草をし、紅茶を一気に飲み干した。
「おまえのおかげで俺達も平穏に暮らしていられる。多くの騎士が離脱したが……それだけ過酷だったんだろう。よく、やり遂げたな」
「運がよかっただけだ。二度と竜退治はしたくない」
「詳しい話は、まだ聞かせてはもらえないのか」
真剣なまなざしで前のめりになったディアスに、ラウールは静かに首を横に振った。
「そうか……今後の参考に、記録しておきたいんだがな」
「参考にはならないだろうさ。無我夢中だったんだ。綿密な作戦を立てて挑んだわけじゃない。無策でもなかったが、書き記して後世に語り継ぐほどのものじゃない」
目を伏せたラウールの脳裏に、無残に引き裂かれた同僚たちの姿がよぎる。語れば、いかに彼等が悲惨な最期を遂げたかを告げなければならない。遺族には、ただ果敢に戦って犠牲になったとしか伝えていない。どこからか話が漏れて、遺族の心をいたずらに苦しめたくはなかった。
(何より、俺が思い出したくない)
竜を仕留められたのは、幸運だった。ひとつ間違えば、ラウール自身も餌食となっていた。あの時の恐怖と、仲間の悲鳴やむせかえるほどの血の匂いは、生き残った誰もが消し去りたい記憶のはず。現に、ラウール以外の生存者もすべて口をつぐんでいると聞いている。語っているのは、万が一のために近場の村に配置して、残しておいた者たちだけだ。
「買い物は、これからか? いるものがあるのなら、言ってくれ。手配しよう」
「気持ちだけ受け取っておく。俺は俺の力で生活ができるからな」
「友人として、何かしたいんだ」
「こうして、茶に誘ってくれるだけで充分だ」
「そうか……なら、せめて昼食まで共に過ごさないか。次いつ町に来るかわからないんだからな」
軽くうなずいて、ラウールは久しぶりにくつろいだ時間を過ごした。
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