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第7話
夕暮れに小屋に戻れば、テーブルの上にチーズとパン、果物が置かれていた。
(来たのか)
購入してきたものを片づけ、暖炉に火を入れて、水を張った鍋に干し肉と野菜を入れる。誰もいない小屋を見て、ミクリアは何を考えたのだろう。いつもいると思っていた相手がおらず、うろたえたのか。森に入っていると考えて、しばらく待っていたかもしれない。いつまで待っても戻ってこず、時間切れになって帰ったのか。
(俺が待っていないと知って、正気に戻ったのかもしれないな)
一方的だったのだと気がついて、通わなくなればいい。強制的に与えられた破壊衝動の代わりの行為は、不快ではなかったが慣れたくはない。だがすでに、体は充分に快感を発露して、残虐な激情の代替えとして満足している。それだけで充分だ。この上、ミクリアの愛撫に肌を馴染ませたくはなかった。
(自慰でも事足りる)
何もミクリアひとりに頼らなければいけないものでもない。あまり好ましくはないが、性的な職業の誰かを買えばいい。彼は王子だ。いつまでも通い続けられるものでもないし、年上の男を相手に遊んでいると知られたら、困る立場にいる。
(遊び……そう、これは遊びだ)
憧れの存在を前にして、自分にできる事があると知って、無邪気に喜んでいるだけだ。行為の内容は無邪気とは言い難いが、少なくともラウールが人里から離れた理由は解消されている。これなら血が湧きたっても、誰かを傷つけなくていい。ミクリアの目的は達成されている。
(ミクリアはいずれ、しかるべき令嬢を妻に迎えなければならない)
すばらしい女性と言ったディアスの姿を思い出し、そのとおりだと胸中で相づちを打つ。
婚約者がまだ決まっていないというのは気にかかるが、まさかラウールに執心というわけでもないだろう。
情交の合間にささやかれる熱っぽい言葉の数々は、気分を盛り上げるための方便で本心ではない。
(本心であるものか)
否定するラウールの心が疼いた。スープができたので椀によそい、ミクリアが置いて行ったパンやチーズと共に食べていると、近づいてくる蹄の音があった。
(誰だ)
野生の馬ではない。暖炉とランプを消して、静かに窓辺に移動する。窓の隙間から外をうかがうと、月明りを受けた人馬が藍色の闇に浮かび上がった。
(ミクリア)
ハッと目を見開いて、ラウールは息をひそめた。馬から下りたミクリアは、まっすぐに小屋へ向かってくる。
「ラウール様。いらっしゃるのでしょう?」
ノックをされても、ラウールは返事をしなかった。
「居留守ですか? それとも、眠ってしまっているのですか」
無言を貫いていると、ミクリアの声がしなくなった。移動して、扉が見える窓に行く。壁に背を預けて座り込んでいるミクリアが見えた。
しらじらと降り注ぐ月光に浮かぶ彼の姿は、この世のものではないような幻想的な輝きを放っていた。闇に浮かぶ白い肌は、もの悲しいほどに儚く、金色の髪は淡々とした光を放っている。端正な顔立ちと細く長い首。しなやかな腕とは裏腹に、剣や乗馬の鍛錬のために鍛えられた男の手。あの手が滑らかな肌であれば、女性と見まがう程の美貌の持ち主だ。
(いや、違う)
どうしようもなく男であると示すのは、手だけではなく肩幅や腰つきだってそうだ。何より、ラウールは知っている。彼が、確実に男であることを。文字通り、身をもって。
ゾクッと背骨に甘美な悪寒が走った。
ミクリアはいつまで待つつもりなのか。どうしてこんな時間に森に入ったのか。夜の森は危険だと、誰もが知っている上に、日中に魔物に襲われてから、まだ一週間も経っていないというのに。
じりじりと時間が過ぎるのを待つラウールは、静穏な夜が今にも暴発しそうな危険をはらんでいると知っている。めったにある事ではないが、深層に潜む魔物が出てこないとも限らない。
(遅くなる前に、帰るはずだ)
椀のスープどころか、鍋のスープまでもが冷めてしまうほど長く待っても、ミクリアは動かなかった。しびれを切らして、ラウールは扉を開いた。
「こんな時間に、何の用だ」
「やっぱり、居留守でしたか」
ふわりと顔をほころばせ、ミクリアが立ち上がる。
「昼に会えなかったので、会いに来ました」
「夜の森は危険だ」
「知っています。ですが、この時間から明け方までしか空きがなかったんです」
「俺が出てこなければ、どうするつもりだった?」
「朝まで待つつもりでした。あなたが帰っていると知っていたので、せめて傍にいたくって」
はにかむミクリアの澄んだ瞳に、ラウールの心がざわめく。
「魔物が出たらどうする」
「剣の心得は、あるんですよ」
「前に、ケガを負っただろう」
「油断しました。ですが、もし危険に襲われても、またラウール様が助けてくださいます。竜を退治した騎士が、不穏な気配を見逃すなんてありえませんからね」
「見殺しにするかもしれない」
「見殺しにしたいほど、私を憎んでいるんですか?」
口をつぐんで、ラウールは背を向けた。ランプに火を入れると、ミクリアが暖炉に火を入れる。
「スープ、温まったらいただいてもいいですか?」
「好きにしろ」
ぶっきらぼうに言って、ラウールは食事を再開した。向かいの席に落ち着いたミクリアが、頬杖をついてラウールを見つめる。
「なんだ?」
「昼間、町にいらしていたんですね」
「なぜ、知っている?」
問いながら、ラウールはディアスが話したのだろうと予測した。
「見かけた方がいたんですよ。だからいなかったのかと、残念に思いました」
「俺がいつも待っているとでも、勘違いをしていたのか?」
「少しは。ですが、ちょっぴりうれしかったんです」
「何がだ」
「あなたが、人との交流をまったく持たなくなったわけじゃないと知って」
「余計なお世話だ」
「ですね」
立ち上がったミクリアが、椀にスープをよそって席に戻る。
「ああ、おいしい。温まります」
王宮では、専用の料理人が作った美味を出されているというのに、適当に作ったものに目を細めるのかと、ラウールは鼻を鳴らした。
「どうかしたんですか?」
「いや。食ったらさっさと帰るんだな」
「夜の森は危険なんでしょう? 日が昇るまで、居させてください」
「俺が送る」
「帰りは、どうするんです? 危険と言ったのはラウール様ですよ」
「竜を退治した騎士が、並の魔物に後れを取るとでも思うのか?」
深く長いため息をついて、ミクリアは拗ねた顔つきで首を振った。
「わかりました。おとなしく帰ります」
「なら、いい」
「とでも、言うと思ったんですか?」
「何?」
いたずらっぽい顔の、瞳だけが剣呑に光っている。
「騎士ディアスとは、ずいぶんと仲がいいそうですね。町に出るたびに食事を共にしているのだとか」
「それがどうした」
「私には、置き手紙すらもなかった」
「来ないかもしれないだろう」
「遅れても、必ず来ます」
「確証がない」
「来ますよ、私は」
「なぜだ」
「恋しい人と会うためなら、何をしてでも来ます」
ハッと短く笑い飛ばして、ラウールは立ち上がった。
「くだらない」
「本気です」
「憧れを恋だと勘違いしているだけだ。おまえ程度の年頃なら、よくある話だぞ」
正気に戻れと言外で告げて、ラウールはテーブルの上を片づけた。
「今夜は泊めてやる。二階のベッドを使え」
「ラウール様も、一緒に眠るんですよね」
「狭い」
「狭い方が、うれしいです」
「眠りづらいと言っているんだ」
「気にならないほど、たっぷりと体力を使えばいいんですよ」
声に潜む淫らな気配に、ラウールの腰が疼いた。
「何を言っている」
「わかっているんでしょう? あなたの体は、私を求めているはずです。――ねえ、ラウール様。私は嫉妬しているんですよ。旧知の間柄であれ、あなたが誰かに会いに行くなんて」
「こじらせすぎだ。いつまでも俺にかかずらっていないで、婚約者のひとりでも見つければどうだ」
「なんの話です?」
「ディアスから聞いた。自分は未熟だからと言って、婚約すらしないとな」
ミクリアが息を呑む。
「気づいて……いたんですか」
「子どもの頃に会ったきりだから、バレないとでも考えていたのか? 甘いな。名前も変えずに、気づかれないとでも? ただの同名だと言い張るつもりだったのかもしれないがな、王妃に瓜ふたつだという自覚はあるか? 立ち居振る舞いも、庶民のそれじゃない」
唇を引き結んで、ミクリアはうつむいた。
沈黙が流れる中、ラウールは鍋に蓋をして食器を洗い、湯を沸かした。カップに注ぎ、蜜酒を混ぜて口に運ぶ。
「わかりました。今夜のところは帰ります。ですから、王城まで送ってください」
「賢明だ」
うなずいて準備のために背を向けたラウールは、殊勝にしているミクリアの口許が、かすかに笑っているとは気づかなかった。
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