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【鈴蘭の間】7
小粋が寝息を立て始めたのは、零次が寝ろと命じた後、随分と経ってからだった。
徐に起き上がった零次は、一角に佇む襖を見遣り、歩みを進める。
襖の奥には広い脱衣所、奥の擦りガラスの先は浴室。
傍らには先立って送り付けていたハイブランドのスーツが2サイズ、2セットずつ。
擦りガラスを開くと、見計らって沸かされたかのようにほかほかと湯気を立てて湯が沸いている。
よくできた黒衣。
昨夜、仕事ぶりに感服した人物の姿が脳裏に浮かぶ。
檜の風呂椅子に腰を下ろし、桶に湯を組み頭から被りながらこれまでの事を振り返る。
本人に確認した訳ではないが、小粋は確かに男を知らなかった。
手練手管の一つも知らず、男に取り入る技術もない。
「鈴蘭」に因んで、花を模った鈴をぶら提げておいて、最低限解されただけの秘部は窮屈過ぎる程だった。
前立腺は開発済みだったが、抱かれた形跡がない。責めに対する利口な躱し方も知らず、痛みにも快楽にも一切耐性がない。
胸板を押す、背にしがみつく、蹴り上げてでも必死の抵抗を見せる、扱き上げる手首を掴む、腰を巧みに扱い躱す。
小粋は果たしてどれか一つでもやっただろうか、──。
抵抗を見せたのは首を掴んだ時だけに過ぎない、他はほんの細やかなものだった。
男を欲する熱を帯びた眼差しは確かにあった。単に発情期特有のものかもしれない。
何かが引っ掛かる。
だが、全て憶測の域を超えない。
胸をざわつかせる違和感を洗い流すように、頭から湯を掛け、顔を上から下に擦って水気を落とす。
湯にゆっくりと浸る気分にはなれず、零次はそそくさと浴室を後にする。
体を拭き上げ、白のYシャツ、黒のスーツに身を包み、白地のネクタイを完璧に締める。
その出で立ちは、今先程まで行為に耽っていた事など微塵も感じさせない。
時間にして十五分足らずの入浴を終え、閨に戻ると小粋の傍らに例の黒衣の影。
「───何をしている」
「後処理を」
よくよく見れば湯を張った桶と手ぬぐいもある。
汗と白濁に塗れていた小粋は綺麗に拭き上げられていた。
緊縛の後が擦れて赤く線を引いているのが遠めに見ても痛々しい。
「頼んでいない」
「出過ぎた真似を」
「いや、いい。──ありがとう。そのまま抑制剤を」
「注射で宜しいですか?」
「構わない」
「本当に────、宜しいですか?」
不意に黒衣が嬉々とした空気を孕んだ風に見えた。
そして頭巾の下でニタりと下卑た含み笑いを浮かべた気がした。
零次が制するより先に眠る小粋に馬乗りになった黒衣が懐から注射器を取り出し躊躇いなく二の腕に突き刺した。
「おい、待、」
「う、わあ゙あ゙あああ──っ、!痛い、ッ痛い、痛い痛い止めろ、僕に触るなッ!針、──針を、刺すな、ッ───!」
眠っていた筈の小粋が飛び起きると同時に絶叫し、暴れ狂う。
それを極々自然に押さえ付けて、黒衣は薬液を流し込む。
一瞬何が起きたのか理解出来ずに立ち尽くした零次が早足に黒衣の背後に回り、肩口を掴んで思い切り引き剥がす。
直前に引き抜かれた注射器が転がるのが視界に端に映るが、シリンジの中身は全て押し出されて空っぽだ。
目を見開いた小粋が涎が垂らし、恐怖に慄気ながら布団を蹴り、逃げる素振りを見せる。
その目は焦点が合っておらず、遥か遠くの虚構を映していた。
零次は膝をつき小粋に躙り寄る。
背後に押し遣った筈の黒衣の気配はもうない。
「ッ、おい」
「っ、針は嫌だ針は嫌だ針は嫌だ、鈴だ──、鈴の音がする──、鈴の音が、僕から──っ嫌だ、アイツらと同じ、っいやだ、嫌だ、」
「おい、!落ち着けって、」
「針は嫌だ、鈴が増える、──鈴が、鈴がッ、増える、増える嫌だ鈴が増える」
「小粋!」
正気を失い、うわごとを繰り返す小粋の頬を零次が強くはたく。
「──っ、!」
ハッ、とした表情を浮かべた小粋が、スーツ姿の零次を正しく認識するや否や首にしがみ付いた。
がくがくと震える体は未だ、何某かのトラウマの余韻を引き摺っているようだった。
そんな状態でありながら、小粋は声を潜めて零次の耳元で囁く。
「────僕の首を噛め。僕を助けろ、此処から連れ出せ。僕にはもう、お前しかない」
それはまるで一種の催眠術の様に零次の脳に響き渡り、嫌な痺れを与えた。
促されるが儘に零次は小粋の首──既に痛々しい痣が広がる其処へと歯を突き立てる。
一瞬迷いが生じて動きを止める零次に、更に小粋が嗾ける。
「噛め、零次」
その瞬間、零次の歯が勢い良く皮膚を貫き、真皮のさらに下に埋まる分泌管に届く。
鈍い刃が皮膚に沈み込む。鋭利な針とは違う鈍い痛みが小粋を襲う。
痛みを堪える為に、背側のスーツを握り込む。
早く終われ、確りと噛め、僕を番にして此処から連れ出せ、──。
零次が更に深く噛み込むと、ぶつ、と嫌な音と衝撃の後で、小粋の分泌腺が断裂した。
「ッ、ン゙ン、ぐっがッ、──、」
「───……、着替えて来い。帰る時間だ」
はあはあと肩で息をする小粋と同じく零次も静かに肩を上下させていた。
淡々と紡がれる言葉は酷く冷淡に小粋に届く。
しかし小粋は微かに口端を上げた。
───……これで僕は、晴れて鷹と番いになった。
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