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2章 ⑥
透瑠は深呼吸して、壁に寄りかかった。さっきまで心臓がばくばくして、息苦しかったのだ。
「――おいこら」
真治が太い腕を腰に当てて、透瑠の目の前に立ったので、ひゅっと喉が鳴ってしまった。
「お前、気づいてたんじゃないのか。ソースがオーダーと違うって」
どうしよう。怒鳴られる。怖い。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。もうしませんからっ……」
腕を上げて、顔を覆う。
きっと怖いのは怒鳴られることよりも、また居場所を失うことだった。やっと落ち着ける場所を見つけたと思ったのに……。
失いたくない。この場所を。痛切に思った。
「おい、違うって。間違ったのは俺なんだから、俺が謝るべきだろ。――こら、透瑠」
名前を呼ばれて、おずおずと顔を上げた。
「――悪かったな。今度からはちゃんと注意してくれ。ここではお前の方が先輩だろ?」
初めて、真治が笑いかけてくれた。慌ててこくりと頷くと、
「よっしゃ、次のオーダー急がねえとな」
と、バシンと背中を叩かれた。
厨房に戻って行く大きな背中を見つめていると、後ろからがばっと羽交い締めにされた。
「うわっ!?」
息が首筋にかかって、くすぐったい。
「ズルい。真治だけ呼び捨てオッケーなんて。俺も透瑠って呼んでいい?」
怜の声は程よいバリトンボイスで、こんな耳元でささやかれたら、男の自分でもぞくぞくしてしまう。顔だけじゃなくて、声までいいなんてそっちの方がズルい。
「あんたは、ダメっ……!」
肘を張って、怜をやっとのことで引きはがす。
あの声で呼び捨てにされたら、気になって仕事にならない。
「え〜ケチ。減るもんじゃなし」
減らないけど、何かが増えるような気がする。……何かは分からないけど。
「お前ら、遊んでる暇があったら、さっさと手伝え!」
厨房から真治のイラついた声が聞こえて来て、透瑠は『はいっ』と返事をしてカウンターに戻った。
怜が『オーダー取ってくるね』と笑いかけてくれたが、ドキドキして目を合わせることはできなかった。
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