32 / 55

11章

「ごめん透瑠くん、あとでお手拭きの補充お願いできるかな」 「あ、はい」  今日のランチタイムも終わり、一日のうちで一番ゆったりできる時間。  奥の控室でまかないを食べていた透瑠にマスターが声をかけた。 「ちょっと牛乳が足りないみたいなので買ってくるよ」 「あ、それなら俺が……」 「いいよいいよ。ゆっくり食べてて。今、怜くんしかいないし」  ――それが問題なのだ。  怜はすでに次の案件に頭を悩ましているようだ。最近はランチの後、いつもの指定席でノートパソコンを睨みつつ、じっと考えこんでいることが多い。  透瑠はやっと肩の荷が下りて、平和な日常が戻って来たわけであるが。……心の中は嵐が吹き荒れていた。  前にもまして、怜を意識している。  二人だと、緊張してうまく話せない。   なので、つい避けてしまう。  ――でもどうしても見てしまう。惹かれてしまう。この自由奔放で、ワガママで、無邪気で、誰にでも優しくて見目麗しいサイアク男に。  それが『好き』ということなのだろうか。  ふと、お手拭きの補充を頼まれていたことを思い出した。業者からまとめ買いするので、段ボールのままロッカーの上に積んである。  まかないの玉子サンドをかきこみ、控室から通路へ出てロッカーへ向かう。  つま先立ちで手を伸ばしてみるが、残念ながら、あと少しで届かなかった。  仕方ないので台を持ってこようと思った瞬間。 「――手伝おうか」  ぎくり、と身体が強張った。  店と通路の境界線に、怜が腕組みして立っていた。心なしか、声が冷たい。透瑠が避けているせいかもしれない。 「いいっ、自分で出来る」 「――かして」   怜が近づいて、透瑠をロッカーに押しつける形で手を伸ばす。ドクリと心臓が鳴る。 「いいからっ……」  こんなに近いと、心臓の音が聞こえてしまうかもしれない。 「あっ」  怜の手をはねつけるように、ムリヤリ伸ばした透瑠の手が段ボールを掠めた。バランスを崩した段ボールが地上へと落下する。 「危ないっ」  ぐいっと身体を強く引かれた。  すぐ後に、ドサッと重い音がして、透瑠が立っていた場所に段ボールが落ちてきた。 「危なかったね……透瑠くん、大丈夫だった?」  怜が透瑠を抱きかかえたまま、いつもの笑顔を見せてくれる。しかし今の透瑠にはこの距離が辛い。心臓が痛いほどに波打っている。 「は、離せよ……っ」  腕を突っ張って、怜の腕の中から逃れようとする。  怜はむうっと不満気な息をもらして、 「――怪我ないみたいでよかった」  と、逆に透瑠の身体を自分に引き寄せた。 「!!」  全身に痺れが走る。透瑠は、下半身に熱が集まるのを感じた。 「や、だっ!」  どん、と怜を突き放す。 「透瑠、くん……」  怜の顔は見れない。下を向いたまま、トイレに駆け込んだ。  呼吸が乱れる。自分の身体の変化が信じられなかった。  ちょっと、抱きしめられただけなのに。  何とか鎮めようと、深呼吸を繰り返す。  怜にとってはたいしたことないのかもしれない。でも透瑠にとっては……。もし無意識にやってるんだとしたら、かなり残酷だ。  ――もう、認めなくてはいけないのかもしれない。自分の気持ちを。  でも、きっとこの想いは叶わない。  怜が自分みたいに何の魅力もない人間を好きになってくれるわけがない。  十も年下で。生意気で、意地っ張りで。全然素直じゃなくて……。  ただ、境遇の恵まれない子供を気にかけてるだけ。ただ、それだけだ。  トイレからそっと顔を出してみる。人の気配はなかった。いつもBGMで流れているクラシックの音が聞こえるだけだ。  カウンターまで戻ると、怜はもういなかった。伝票と一緒に千円札がコーヒーカップにはさまれていた。  ほっとしたような、切ないような。  怜はどう思っただろうか。  透瑠が怜のことを嫌ってると思うかもしれない。  でも、いっそのこと、その方が……気が楽だ。  ――早く恋人でも作って、結婚でもしちまえばいいんだ。  そしてこの想いは心の奥底にしまって、鍵をかけよう。 『今、ちょっとだけ、心の泉が涸れてるだけなんだよ。ちゃんと、あるから。泉が。――俺が、水を注ぐから』    あの言葉が心に残っている。  怜が水を注いでくれた。人を好きになることを教えてくれた。  だから、涙が出るのもきっとそのおかげだ。

ともだちにシェアしよう!