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3.冤罪
父は罪を犯した。……ということになっている。だがそれが冤罪であると、到流は知っている。
父は漁師だった。
その父と一緒に船に乗っていた人間が不審な死を遂げる、という事件が以前あった。それが最終的には殺人事件であると判断されたのだ。
状況から判断し、到流の父が容疑者となった。そこには二人しかいなかった。
船の上という、密室。
二人の間に何があったのか。
週刊誌には憶測混じりの記事が上がり、真実は捻じ曲げられる。一体何が真実なのか、周囲には永遠にわからない。
けれども一度『犯罪者』というレッテルが貼られると、それが本当のことではなかったとしても、本人にも家族にも決して消えない傷が残る。
(真実……)
急に耳の奥から潮騒の音が溢れ出した。
ざわざわとノイズのように騒ぎ出す波の音は、到流を飲み込もうと牙を剥く。
目の前に、抗えないほどの大きなうねりが見えたような気がした。
「──大丈夫?」
文雄に声を掛けられて我に返った。
トレイを持ったまま、入り口に立ち尽くしていた自分に気づき、足を踏み出す。
「コーヒー、持ってきました」
「ああ、ありがとう」
テーブルにトレイごと置いて、到流は自分のカップだけ手に取り、ラグの敷かれた床に座り込む。作業中の文雄も手を止め、温かいコーヒーを口に含んだ。
「マスターの淹れるコーヒーは旨いな」
「まあ……そうですね」
心の波が少し落ち着く香りだ。
何故マスターの部屋で、初対面の文雄とコーヒーを飲みながら世間話をしなければならないのだろうか。
店舗兼住居のカメリアは、建築されてからかなりの年数が経過している。
建て直そうと思ったら、今と同じ面積では恐らく建築出来ないだろう。その為か予算の関係か、内装をリフォームしたり、修繕したりして凌いでいる。マスターの部屋もそうだが、到流の部屋も古いなりにきちんとしていた。ただ、どうしても窓からの眺めはいただけない。
まるでどこへも自由に行けない、牢獄のようにも思える。
「ところで、軽いアドバイス。元ここでバイトしてた先輩として物申すけど、もう少し君は愛想よくした方がいいと思うよ」
突然言われたが、大して気にも障らなかった。一度マスターにも言われたことがあるし、自分でもわかっていることだ。
「電機屋さんみたいにですか」
「文雄ね」
「どうでも良いですよ名前なんて。どうせ俺と関わることなんてないでしょう?」
「……あー、ね」
ちょっと言葉尻が強くなった到流に、会話が淀む。
このまま退席してしまいたい気分だったが、無言でコーヒーを飲んでいたら、やがて文雄が続けた。
「僕ね。実のところ電機屋を好きでやってるわけじゃあ、ないんだ。だから、たとえ今だけの付き合いだとしても、名前で呼んで欲しいなって思うのは、欲張りかな」
「……へえ? 意外ですね」
「意外って?」
「なんの不満もないように、見えたもんで」
深い意味もなく口にした到流に苦笑した文雄は、コーヒーカップをトレイに戻しながら立ち上がる。
「現状に満足している人間なんて、世の中にどれくらいの数いるんだろうね。たとえどんなに幸せそうに見える人間だって、何かしら不満は持っているもんだ」
「そんなもんすか」
到流に背を向けて再び作業を開始した文雄は、細かい部品を元あった箇所に戻しながら、また笑う。
「それが、世の中ってもんじゃないかな? ──さて、これで終わり。僕は引き上げるとするよ。おしゃべりに付き合ってくれてありがとう。コーヒーの片付けだけ、お願いしていいかな」
周囲を片付けて工具箱を持つと、文雄は階段を降りていった。
どうせもう会う用事はない。
次に会ったとしても、名前を覚えているかはわからなかった。
それでも、なんとなく瞳の奥に垣間見えた陰りが、蝸牛 の粘液のように到流の心に尾を引いた。
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