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9.変化

「──えっ」  田川到流は唐突に目を覚ました。  ここは一体どこだろうか?  何故眠っていたのかもわからぬまま、身を起こし周囲を見回す。長椅子に横たわり、薄い毛布を掛けられていた。  どうやら夢を見ていたらしい。ぼんやりとした物を払うように軽く頭を振る。  ドアの開く音がした。 「ああ、良かった。目が覚めたんだね」  ドアの向こうからやってきたのは中瀬文雄で、その手に濡れたタオルを持っていた。  ドア越しに見た光景は、恐らく日中に訪れた中瀬電機の店舗だろう。外はすっかり暗くなり、客もいない。既に店仕舞いをしたようだった。 「あー……と、なんですかこれ?」 「ごめん、僕が脚立から落ちてね。到流くんは巻き添え食った形に……カメリアのマスターには、連絡しといた」 「わざわざここまで移動したんですか」  記憶が確かならば、個人商店の中での出来事だ。しかし目覚めたのは中瀬電機の一室。倒れた到流をここまで運ぶのはなかなかに重労働だろう。 「あそこのおやっさん、用事があるからって。いつまでもいるわけにはいかなかったもんでね」 「救急車呼ぶとか……」  例えば巻き添えで意識を失ったのであれば、然るべき医療機関に頼った方が良いのではないだろうか。  結論としては大したことはなかったのだろうが、それは結果論だ。  言われて初めて、文雄は己の考えなしの行動に思い至ったようだった。 「ごめん。痛いとこ、あるか?」 「……いえ、別に」 「悪かったよ」  意気消沈している文雄の姿を見ているうちに、到流はなんだかおかしくなってきた。 「もう、平気ですから」 「なら、良かった……到流くんに何かあったら、君のご両親にも申し訳ないからね」 「ご両親……」  ぽつりと呟いて、沈黙が訪れる。  到流の傍に、両親はいない。  父は捕まり、懲役を終えた今も共に暮らしているわけではない。 「何か飲み物でも持ってくるよ。コーヒーでいいかな」 「電機屋さん、俺……」 「僕本当はね、電機屋じゃなくて、マスターみたいに旨いコーヒーを出してくれる店を開きたかったんだ。だから少し、コーヒーには自信がある」 「──いただきます」  何を言おうとしているのだろうか。  とりあえず喉が渇いていた。コーヒーを飲んでからでも良い。少し落ち着きたかった。 「どうぞ」 「どうも……電機屋さ……文雄、さんは、」 「ん、なに」  初めて名前を呼ばれたことに対して、文雄は目をぱちくりさせた。到流の座っている長椅子のすぐ隣に腰を下ろし、こちらを不思議そうに見てくる。  なんだか恥ずかしくなってきて、文雄から目を逸らした。 「いや、初めて会った時、電機屋さんじゃなくて……名前でって……」 「──ああ!」  文雄は思い出したように、膝をぽんと叩く。それから嬉しそうに笑った。 「ありがとう。嬉しいよ」  その笑顔に、どきりとした。  文雄自身に大した意図はないのだろうが、こんなふうに気持ちがうわずったのは初めてだった。

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