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第5話 理由
朝練は7時に始まる。だが寮生は、朝練が始まる前に諸々の準備を完了させて、7時に部員が集まったらすぐに練習に入れるようにしておかなければならいというルールがあった。
当番制で通いの部員もやることにはあるが、学校から徒歩30秒のところにある寮に住んでいる寮生がやった方が効率的ということがあり、下級生上級生関係なく、こういうことは率先して寮生がやることになっていた。
当番であった俺は、他の部員と一緒に20分前に集合して、眠気眼をこすりながらボールや用具の用意をしていると、時間が近づくにつれ通い組が集まってきた。その中に朝沢先輩の姿を見つけ、俺は準備の手を止めて先輩に駆け寄った。
「先輩、おざす」
「おはよう」
まだ目が開ききっていない俺とは違い、朝沢先輩は朝から爽やかな空気をまとっている。幼い顔つきの彼を先輩と呼ぶのは、いまだに違和感が消えない。
「ちょっと聞きたいことがあるんすけど、いっすか」
「いいよ、何?」
グラウンドの入口で声をかけたため、グラウンドに入ってくる部員たちが何事かと視線を送ってくる。
「俺がなんでAに入れなかったか、先輩知ってますか?」
俺は昨日、自分がAチームに入れなかった理由を、寮にいた監督に聞きに行った。でも監督は大したことは教えてくれなかった。どうやらテストの合否はAチームの人の意見も参考にしているようで、監督陣だけで決めているわけではなかったようだ。納得いってないのなら、先輩たちに聞いてみろと言われた。
監督の雰囲気では、俺の選手としての価値をしっかり認めている感じだった。「期待してるからがんばれよ」とエールまでもらった。やはり、アピールは上手くいってたのだ。なのになぜが、俺は落ちた。その真相を知るために、俺は捕手で、一番発言権のありそうな朝沢先輩から聞いてみることにした。
先輩は、あぁ……。と、憐れむような顔をした。
「僕も他のやつらも、須見くんはAチーム確定だと思ってたんたけどね。監督も、須見は当然Aみたいなニュアンスでミーティングしてたし。でも恩がね」
先輩は言いづらそうに首もとに手をやった。
「恩が須見くんのこと気にくわなかったみたいで、Aチーム入りに反対してさ。監督たちもそれに納得させられちゃって、恩って監督たちに気に入られてるから」
目は完ぺきに覚めた。
じゃあ何か。監督も先輩たちも俺のこと認めてたのに、笠木恩ひとりの反対に押しきられたってことか。
「どう取り入ってんのか知らないけど、恩ってすごい監督からの信頼厚いんだよね。何考えてんのか全然わかんないし、表情もないから僕は苦手」
たしかに、笠木の配球は真意がまったくわからなかったし、表情も変わらないから投げていて気持ち悪かった。捕手というのは、投手に気持ち良く投げてもらうための声かけをしたりするのは当然だ。なのに笠木恩にはそんなこと一回もされなかった。
「ごめんね、Aチームに入れてあげられなくて」
「いや、けっきょくは監督が決めたことですし、先輩が謝ることないです」
「須見くんの球、捕りたかったよ」
先輩は俺の肩を叩き、ベンチへ向かっていった。
先輩は3年生だから、もう俺の球を受けることはない。でもそれって、もう俺がAに入ることはないと思っているということだ。たしかに監督は、夏の大会前に1年を育てる暇はないとは言ったけど、まだ時間はある。ここの監督なら、使えると思ったらすぐに使ってくれるはずだ。朝沢先輩はなぜ、もう俺はAに上がれないと思っているのか、疑問だった。
立ち尽くしていた俺の横を、ふいに人が通った。全体的に短いが前髪だけ長い黒髪、それに見え隠れする切れ長な目に表情はなく、野球部なのに妙に白さの残る華奢な体格。笠木恩が音もなく、俺の横を抜けて行った。
「あ、先輩!」
とっさに声をかけた。先輩は返事もなく振り返る。
「聞きたいことがあるんすけど」
そう聞いた瞬間、監督が朝練開始の号令をかけた。
「後でいい? 朝練始まるから」
落ち着きのある澄んだ声。そう言えば、声を聞いたのは初めてのような気がする。混じり気のない声は、まっすぐに俺の耳に届く。
「あ、はい」
笠木恩は足早にベンチの方へ去っていった。
「おい須見、準備サボってんじゃねえよ!」
一緒の当番だった世古がキンキンと怒鳴っている。部屋ごとの当番制なので、同室者とは常に当番が一緒だ。俺はため息をつき、置きっぱなしだったラックを運びに戻った。
Aチームに入れなかった俺の朝練は、Aの球拾いと走り込みや素振りだけ。Aチームの笠木には近づくタイミングもなく、朝練は授業が始まるギリギリまで行われるため、けっきょく笠木に話を聞く時間はなかった。
「俺が昼休みに時間作るように言っとこうか?」
笠木と話ができなかったことを言うと、辻尾はそう提案してくれた。同学年で隣のクラスの辻尾は、それなりに仲が良いらしい。俺は是非と頼み、上級生が着替えにいくのを横目で見ながら、1年の仕事であるグラウンド整備に入った。
☆ ☆
「須ー見ー。授業終わったぞー」
机につっ伏していた俺の背中を叩いてきたのは、同じクラスの女。金髪ロングを縦巻きにし、黒目がでかくなるカラコンにバッチリメイクのギャルだ。その連れたちも、俺の回りによってきた。
頭が空っぽで楽しいことしか考えてなさそうなこういう軽い女が、俺は好きだ。軽いノリで付き合えるし、ふつうに美人。俺はこういうやつらと適当にふらふら遊びたい。
「早く購買行こーぜ」
同じクラスのチャラい男たちもやってきた。昼の時間はこいつらとつるむことが多かった。こいつらとアホほどパンやおにぎりを買って、毎日プチパーティーのような昼食をとっていた。
「わりーけど、先にちょっと用事」
俺はケータイに届いている辻尾からの連絡を確認し、席を立った。財布から千円札を出し、ひらつかせる。
「終わったら合流すっからさ、なんか適当に買っといて。米多めで」
購買の商品は激安なので、千円もあれば満腹になるが、早めに行かないと食料がなくなる。昼を食いっぱぐれたら洒落にならないので連れにパシリを頼むと、金を受け取った男が興味津々な顔になった。
「どこ行くん」
「先輩と話があんだよ」
「ウソっ、告白? やだーヤラシー」
女の方が、派手な爪をした手で口元を隠しながら言った。
「ならよかったけどな、男だから」
「うえっ、マジか。野球部ってそっちが多いって聞いたけど、あれマジか」
「マジ!? 須見ってそっちだったの? だから急に寮とか入ったわけ?」
「やだーショックー」
どうやらけっこう有名な噂らしい。こいつらみたいにネタで言ってくる分にはいいが、女陣に事実として捕らえられたらめんどくさい。女遊びがしづらくなる。
「おお。ちょっくらヤってくるわ」
ギャハギャハと下品に笑う連れを置いて、教室を出た。
辻尾が指定した場所は昇降口。階段を下って顔を出すと、そこにはもう辻尾と笠木がいた。壁にもたれながら、親密そうに話している。にこにこしている辻尾とは裏腹に、笠木は相変わらず乏しい表情だった。
「ちわっす」
「おす」
辻尾が俺に返事をした。笠木は横目でちらりと俺の姿を確認すると、さらに能面のような顔に戻った。
「じゃ恩、俺は戻るから。じゃあな」
「ああ」
去っていく辻尾に、笠木が軽く手を上げる。もう一方の手には、大きな手さげ袋がぶら下がっていた。
「そっちで話そうか」
笠木が指差す先は、昇降口と対面の中庭に繋がる扉だった。その扉を出ると両サイドに自販機があり、その周辺にはベンチが備え付けてある。笠木はベンチの端に座り、俺はその真反対に腰を下ろした。
笠木は座るや否や、自分の膝の上で手さげ袋の中身を広げた。中から出てきたのは、お重のように大きな弁当箱だった。
「悪いけど、弁当食べながらでいい? 俺、食べるの遅いから」
白米のみの1段と、おかずが2段。さらにスープでも入っているのか、密閉容器がひとつ横に添えられた。この薄い体にこの量が入るのかと、俺は目を丸くした。
俺に一瞥もくれず、笠木はサラダを口に入れた。
「朝沢先輩に聞いたんすけど、俺のAチーム入り、先輩は反対したんすよね。その理由が聞きたくて。俺のどこがダメだったんすか? 俺、けっこう良かったと思うんすけど」
俺が話し出しても、笠木は弁当箱から一切視線が動かない。仮にも人と話してて、その態度はどうなんだ。朝沢が言っていたように、笠木はどうも掴みどころがなくて、いっしょにいて居心地のいい人ではない。俺も苦手な人種だ。
「最後に首振ったからっすか? でも投手として首振る権利はありますよね」
吉浦との打席で、俺は笠木のサインを拒否した。策があったわけでもないし、結果打たれてるし、そのことを言われたら返す言葉はない。だがAチーム落ちするほどのミスだとはどうしても思えない。だとすれば、その事で笠木が気分を害し、俺が外されたとしか思えなかった。
スローな口の動きで、笠木はサラダを飲み込んだ。
「当然だろ。投げたくなかった首振ればいいよ」
「じゃあどうして」
玉子焼きを頬張り、口ごもりながら笠木は言った。
「だって、やる気ないだろ?」
俺は息をのんだ。
笠木の視線は弁当を向いたままだ。
「は? なんすかそれ。俺にやる気がないと思ったからAチーム入り反対したんすか」
「ああ」
笠木は当然のように口を動かしている。
俺は返す言葉が見つからなかった。やる気がないのは事実だ。だが、他人には断定できないそんな曖昧な理由で、落とされるなんてありえない。そんな理由で落とされていい球じゃない。
「俺にやる気がないなんて、何でそんなことが先輩にわかるんすか? たとえそうだとしても、良い球投げられりゃ問題ないでしょ。そんなことで入れなかったなんて納得できない」
監督も先輩たちも、チームを強くすることに重きを置いていると思っていた。多少の問題など意に介さず、巧い選手を使ってくれるチームなんだと感心していたのに、ここへきて結局この考えなのか。やる気とか真面目さとか努力とか、やはりそんなものを大事にするのか。
勘弁してくれよ。この高校に来て、ちょっとだけ良かったと思ってきたところだったのに、そんなテンションの下がること言ってほしくない。
「他の学校だったら使われてたかもしれないけど、うちには飛鳥がいる」
「飛鳥先輩と俺のやる気と、何が関係あるってんですか」
「飛鳥と君は似てる。速球派ってこと、球質も球筋も。言っちゃえば性格も似てる。似たタイプの投手じゃ控えの意味がない」
――控え。当然のもの言いに腹が立ったがぐっと我慢した。
「かと言って飛鳥以上の球を投げるわけでもない。それに加えてやる気もない。そんな投手、どうして使いたいと思う?」
「飛鳥先輩だってやる気あるようには見えなかった」
「まあ、やる気満々と言えばウソだけど。少なくともお山の大将でいたいって気概はひしひしとあるよ。君は、そういうのもないでしょ」
すべて見抜かれている。辞めるためにやっている俺は、そんな気持ちなど1ミリもない。でもなぜ、笠木は断言できるほど俺の気持ちがわかるのか。人のやる気なんて、そう簡単にわかるもんじゃない。
わかった顔をして、もっと本気でやれ!という奴は腐るほどいるが、こんなにも取り繕う隙も与えてくれない人には初めて会った。笠木の言葉は、適当に言ってるんだろ、と思わせてくれない確かなものが存在する。
俺が目を伏せて考えを巡らせていると、今まで一切俺を見ていなかった笠木が、いつの間にか射抜くような視線を向けていた。
この人は毎回そうだ。こちらが様子を窺っているときは、得意の能面を被り感情を見せず実体を掴ませないくせに、気を緩めた一瞬の隙に、こっちの感情やら考えやらは見抜いていく。
本当に気持ち悪い。感情も空気も薄いくせに、妙に存在感のあるこの人に、俺は恐ろしさみたいなものを感じている。認めたくはないが、この人はふつうの人とは違う何かがあった。テスト試合のときも、マスク越しに見つめてくるこの人の目が怖くて、俺は首を振ったのだ。
「でも気持ちとかそんなの、勝つことには関係ないですよね。やる気がなくたって真面目に練習しなくたって、巧けりゃなんでもいいっすよね。タイプとか性格似てるとかどうでもよくないっすか? 巧い奴が上に行くことの何が悪いんすか!」
思わず語気を荒げた。俺は人をイラつかせることは得意だが、逆は性に合わない。大体のことは流せるし、それが気にくわなかったら倍にして返すぐらいはする。だから自分でも、今の状況に驚いた。正当に言い負かされて、勝算のない言葉を放つ。笠木をねじ伏せられる言葉が俺の中に存在しなかったが、言い返さないわけにはいかなかった。
笠木は能面を崩さず、弁当を食べる手も止めなかった。
「そう思うなら、実力で証明しなよ。本当に君に実力があるなら、俺の発言なんかで変わらないよ」
笠木の発言は間違ってない。飛鳥以上の球が投げられれば、俺は確実にAに入っていただろう。 投手のタイプの話もわかる。甲子園を目指すには投手1人では厳しい。控えに似たタイプの投手を置くのは、あまり賢い選択ではない。
理解はできる。笠木の意見は真をついている。世古がAで俺がBという事実にはしこりが残るが、きっと俺とはまったくタイプの違う投手なんだろう。
俺にやる気があれば、Aに入れたかもしれない。でもそんなもんいらない。実力さえあれば、レギュラーは取れる。
俺は笠木を睨んだ。そんなのどこ吹く風のように涼しい顔で、笠木は弁当を食している。ムカつく横顔だ。
「わかりました。俺は、“実力で”ベンチメンバーに入りますんで」
俺はベンチから立ち上がり中庭を後にした。朝沢さんの言うとおり、笠木は嫌なやつだった。やる気なんか必要ない。俺は実力でAチームに入る。監督陣を笠木を見返す。
昼食の待つ、いつもの溜まり場を目指し階段を上がっていると「須見くん!」と声をかけられた。気が立っていたので、振り向き様の顔は怖かっただろう。女子の声だったので、はっと俺は眉間あたりの力を抜いた。
「こんなところにいた。教室にいないから探しちゃったよ」
前に一度遊んだことのある女だ。髪が明るくてばっちりメイクの女子。どこのクラスか名前も思い出せないが、顔は知っている。
「俺を? なんか用?」
そいつはおもむろにブレザーのポケットから紙を取り出して、笑顔をはりつけながらそれを渡してきた。
「これ私の気持ち。読んでね」
俺が何を言う間もなく、そいつは去っていった。大学ノートを破いて4つに折っただけの紙。ラブレターだと予想はつくが、今は読む気にはならなかった。俺はそのままポケットに突っ込んで飯を急いだ。
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