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第8章 第3話(2)

「あなたが入社したら、わたしの生命を救った新薬について教えてあげる。以前に、そう約束したわね」  部屋の奥まで進んで、ガラス壁の向こうの様子を眺めながら天城瑠唯が言った。社長令嬢の登場に、近くでモニターチェックをしていた研究員が席を立とうとするが、天城瑠唯はそれを制して、群司にも中の様子を見てみるよううながした。 「くわしいことはまだ教えられないけれど、ここで行われている研究は、ひとつの個体の中で破壊されたり、変異が起こっている塩基配列の修復をうながして正常化させる物質の開発と精製。そういった分野に特化されているの」  言ったあとで、創薬本部(うえ)とあまり変わらないように思うでしょう?と笑った。 「でもね、ここでの研究には決定的な違いがある。それは、ここで生み出された薬品の効能が、特定の疾患に限定されないということ」  群司の鼓動がふたたび跳ね上がった。 「……それは、ひとつの薬がマルチに効果を発揮するということですか?」 「そう、疾病の種類は問わない。問題のある箇所を、自動的に見極めて正常なものに書き換えてくれるから」  癌やアレルギーなどでも、通常は発生した部位や発現している症状によって治療法が異なってくる。だが、このラボで開発している薬品は、細胞増殖時にエラーを起こして複製されたDNAなどをピンポイントで正常化させるため、疾病の種類や状態を問わないのだという。 「そんなことが、可能なんですか?」  尋ねながらも、心臓の音が周囲にも聞こえるのではないかと思うほど激しく高鳴って、息苦しさをおぼえた。手足の震えを、周囲に気取られぬよう抑えるのにひどく苦労する。掌にじっとりと冷たい汗が滲んで、反対に、口の中が干上がっていった。  ついにここまで来た、と思った。  間違いない、この秘密のラボで開発されているものこそが探し求めていた『魔法の薬』。 「(にわか)には信じがたいでしょう? でも、実際に可能だからこそ、いまのわたしがこうしてここにいる」  天城瑠唯は、昂然と告げた。 「どんな病も、この薬ひとつで治療が可能。でもそれだけじゃない」  言って、思わせぶりに群司を顧みた。 「これからの時代は、疾病にかぎらず、個人の希望に合わせて遺伝子情報をデザインしていくことが可能になるのか――あなた、坂巻さんたちの研究発表を踏まえた会議の場で、これからの展望を踏まえてそう質問していたわね? その答えはイエスよ」  正面から見据えられて、群司は小さく息を呑んだ。 「……それが、この薬だと?」 「ええ、そう。エラーを起こしている塩基配列を修復するだけでなく、そこにプラスαの作用を付加することで、脳の活性化や筋力の増強、細胞の老化を食い止めて若返らせるといった書き換えさえも可能にできる」  それはまだ実験段階だけれど、と補足されたが、群司の緊張は高まるばかりだった。

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