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第8章 第4話(5)

 まださほど飲んでいないはずなのに、一度ふわりとした酩酊感が気になりだすと、そのことにばかり意識が向いて、平静でいることが難しくなった。 「いま三十二なら、ちょうど男盛り、働き盛りだよなぁ。俺がかみさんと再会したころだわ」  坂巻の声が、膜の向こう側から聞こえてくるような、やけに不自然な感じで耳に届く。 「お兄さんはなんの仕事してるの? やっぱ群ちゃんとおなじ研究畑の人? それとも全然違う業種?」 「兄は、け――」  言いかけた群司は、ぐっと言葉を呑みこんだ。  自分はいま、なにを言おうとしただろうか。  ふわふわとした思考に拍車がかかって意識が散漫になり、急激に自制できなくなっている自分に気がついた。 「坂巻さん」  群司は膝の上に置いた拳を握りしめ、もう片方の手を軽く挙げる。 「すみません、話の途中で。ちょっとだけ、席はずしてもいいですか? その、トイレに……」 「ああ、うん。いいよいいよ、行ってきな。なに、気分悪くなっちゃった?」 「いえ、たぶん冷房の風にあたりすぎたかと」 「そっちの席冷えた? 無理しないでいいよ。場所わかる? 一緒に行こうか?」 「大丈夫です、わかります。すぐ戻りますんで」  荷物お願いしますと頼んで、群司は立ち上がる。そのままフラフラとした足取りで座敷を出ると、案内表示にしたがい、通路の奥の男性用トイレへと向かった。  目隠しとなる衝立(ついたて)の奥に引っこむかたちで入り口があり、中に入ってドアを閉めると店内の喧噪が一気に遠くなる。三つの小用スペースにふたつの個室。だれもいない空間で手洗い場のまえに立つと、自然に深い吐息が漏れた。  なぜだろう。目の前の鏡に映る自分の姿が、やけにぼんやりと見えた。  やたら動悸がして、耳もとでドクドクと血液の流れる音が大きく聞こえるのは、それだけ酔いがまわっている証拠だろうか。  思ったところで、そんなに飲んだかなと疑念が生じる。ビール二杯に坂巻が作ってくれた焼酎の梅割り一杯。焼酎に関しては、まだグラスに三分の一ほどが残っていたような気がする。それなのに、こんなにグラグラしてまともに思考が働かなくなっているのはなぜなのか。  特段の大酒飲みというわけではないが、それでも決して弱いほうではない。自分の酒量はそれなりに弁えていて、ハメをはずしたことはこれまで一度もなかった。なにか問題を起こして、父や兄に迷惑がかかるようなことがあってはならないと自分なりに戒めてきたからだ。それが、今日はなぜだか酒のまわりがやけに早い。ビール二杯まではとくにどうということもなかったように思う。いや、本当にそうだっただろうか。  考えたいのに、集中してものを考えることができなかった。

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