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第8章 第4話(6)
兄のことが話題になって、話したくない、話題を逸らしたいと思っていたはずなのに、訊かれたことにうっかり答えそうになっている自分がいた。天城製薬で極秘に進められているプロジェクトに関する情報を得たことで、思っていた以上に舞い上がり、興奮していたのかもしれない。
ずっと追い求めてきた魔法の薬は、たしかに実在した――
タイミングよく話題になった兄のことが、さらに引き金となって興奮を呼び起こしたに違いない。
危なかったとあらためて思う。
あのまま話をつづけていたら、群司は間違いなく坂巻に兄のことを話してしまっていた。なにひとつ包み隠さずに。
警察官をしていたことも、薬物中毒で亡くなったことも、その不審な死の真相を探るために自分が天城製薬に潜りこんだことも。
ダメだ、しっかりしろと鏡の向こうにいる自分を叱りつける。
ここまで来て、すべてをだいなしにするわけにはいかない。ようやく真相にたどり着けるところまで近づくことができたのだ。
もっと冷静になれ、もっと慎重になれと己に言い聞かせる。そのそばから、なぜか理性が崩れ落ちていくようなおぼつかなさに見舞われて、どうしようもない不安に駆られた。
自分はいったい、どうしてしまったというのか。
不意に入り口のドアが開いて、群司は全身に緊張を奔らせた。しっかり立っていたはずなのに、いつのまにか洗面台の縁 を掴んで、身を預けるように体重を支えていたことに気づく。
このままでは変に思われると、場を離れようとして踵 を返しかけ、さらに足もとがふらついて洗面台に両手をついた。
「こんなところで、なにをしているんですか?」
その背後から、耳慣れた、ひどく冷ややかな声が飛んできた。
思わず鏡越しに視線を送った先で、声色同様に冷ややかに自分を見据えている眼差しと目が合う。
なぜ、こんなところに……。
疑問を口にしかけて、けれども思うように声が出ない。
同性とわかっていてなお、目を奪われる美貌。
ずっと、気にかかっていた。
だれより警戒すべき対象として注意を払ってきた。
今日、おなじプロジェクトに加わることが告げられて、さらに一歩踏みこめるところまで来た。
それが吉と出るのか、凶と出るのかはいまのところわからない。けれども、立ち止まるわけにはいかないと、あらためて肝に銘じたところだった。
鏡越しに、冷たい眼差しが自分を射貫く。
天城製薬株式会社薬理研究部所属、早乙女圭介――
視野が瞬く間に狭まって、強烈な浮遊感に全身が包まれる。
ダメだ、意識をしっかり保てと己に言い聞かせたところで、群司の思考は唐突に途切れた。
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