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第10章 第1話(3)

「えっと、ともかく」  しばらくの沈黙の後、如月の手がようやく離れたタイミングで群司はあらためて口を開いた。らしくもなくドギマギとして、平静を装うことにひどく苦労した。 「俺が天城製薬でのバイトを辞めようが、内定を辞退しようが状況は変わらないってことです」  なんとか普通にしゃべれることを自分で確認してから、群司は軽く咳払いをする。それから、気を取り直して話をつづけた。 「天城顧問はフェリスに関する情報という餌をちらつかせて、手の内を明かして見せた。俺の反応を見るのと、逃がさないという意味合い、両方あったと思うんですけど、いずれにせよ退路は塞がれてるに等しいってことです」  いまさら逃げようがないのだと群司は主張した。 「俺が天城製薬に無理やり関わろうとしなければ、もしかしたら見逃してもらえたのかもしれない。でも無理ですよね? 兄貴の死因は表向き、違法薬物の過剰摂取で、社会的にも罪人認定されたままなんです。職業が警察官だったから、世間の風当たりもことのほか厳しかった」  おなじ警察官である父が矢面に立ってくれたおかげで、群司たちにはさほど影響はなかったが、それでもマスコミ関係者らが自宅アパートを幾度か訪ねてきたりもした。 「そういうの、メチャクチャ悔しいじゃないですか」  当時を思い出すだけで、群司の胸になんとも言えない苦い気持ちがこみあげる。 「俺、いまだに納得できないんです。兄貴があんなふうに死ななきゃいけなかった理由はなんだったのかって」  ソファーの上に置いた手を、群司はぐっと握りしめた。その様子をじっと見守っていた如月の手が、そっと重ねられる。口を塞いだときとは異なる、寄り添うようなあたたかさがあった。 「警察はいまも秘密裡に動いてるのかもしれないけど、正直、信用してないところもあるんです」  如月から与えられるぬくもりに心が()いでいくのを感じながら、群司は話をつづけた。 「松木議員の件ひとつとっても、天城製薬の手がすでに政界にまでまわっていることは明らかです。それが警察関係に及んでない保証なんてどこにもない。むしろ、上層部に必ず息のかかっている人間がいると俺は踏んでる」  フェリスは、一部の特権階級にのみ入手することが可能な特別な薬。  己が選ばれた側の人間であることを証明できる優越感と、さらなる望みを手に入れることができる誘惑は、その特権を享受できる立場の人間にとって、このうえない甘い蜜となるだろう。  虚栄心を満たし、欲望を満たすことができる最高の媚薬。  慾心にまみれた人の心は、瞬く間に理性をとろかされ、悦楽の沼へと落とされていく――

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