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番外編~ある幸せな休日~ 第1話(3)

「さて、それじゃ洗面所と台所、借りますね。琉生さんは好きなだけ写真撮ってて」  もう一度音をたててほっぺたにキスをした群司は、廊下の向こうに消えていった。如月はその背中を見送り、あらためてテーブルのケーキをみて口許をほころばせる。それからソファーの背に掛けてあるコートとマフラーをハンガーに掛けなおしてラックに吊すと、ローテーブルに置いてあったスマホを持っていそいそとケーキのまえに戻った。ケーキを目にすると、やはり口許がゆるむのを抑えることができなかった。  たしかに店で売られているものと比べると手作り感がある。だが、それでも言われなければ気づかなかったくらい、きれいに仕上がっていた。なにより、慣れない中、悪戦苦闘して書いただろうプレートの文字が愛おしかった。  自分のために、ここまでしてくれる存在がいる。そのことが純粋に嬉しかった。  ここ数年、誕生日のことなど思い出す余裕もなく過ごしてきた。去年のいまごろはとりわけ絶望の淵にあって、どうすれば検挙に繋がる手がかりを掴めるかと、そればかりを思い悩む毎日だった。  仕事上のパートナーとして、だれよりも信を置いていた存在を喪った衝撃は計り知れず、自分もまた、明日をも知れぬ状況の中で必死に足掻(あが)きつづけていた。ほとんど自暴自棄だったと言っても過言ではない。  あれほど有能だった彼が、あんなにも呆気なく生命を奪われてしまったのだ。自分にもいつ、なにが起こってもおかしくはない。だが、そうなったときには、たとえ差し違えてでも必ず真実を()のもとに(さら)し、その目論見を打ち破ってやるのだ。そんな悲愴な覚悟を胸に、張りつめた日々を送っていた。  たった一年のあいだに、こんなにも大きく事態が動くとは思いもしなかった。  四ヶ月前に事件は急展開を見せ、容疑者は逮捕された。だがその容疑者も、逮捕後まもなく薬物中毒によって死亡し、現在もなお、手探りの中、事件をめぐる捜査はつづいている。如月をはじめとする捜査官らの数年にわたる潜入捜査はこれをもって終了となり、本来の職階を取り戻したことで、その環境は大きく変化した。しかしそれとは別に、如月の場合、恋人を得たことによる変化も訪れていた。  八神群司。桂華(けいか)大学の四年生で、如月がひそかに手を組んでいた仕事上のパートナー、秋川優悟(ゆうご)の実の弟だった。  兄の死の真相を探るため、群司は如月の潜入先である天城(あまぎ)製薬に研究アシスタントとして入りこんできた。その群司の協力を得て、行きづまっていた捜査は一気に進展を見せ、それが事件解決の糸口へと繋がった。  群司の存在を知ったとき、最初はとにかく優悟の弟を守らなければと必死だった。けれどもその関係性はあっという間に逆転し、気がついたときには自分のほうが群司の懐に絡めとられ、守られる立場になっていた。  頭の回転が速く、心の機微を察する能力に()けている群司に如月はいつも適わない。ひたむきな想いをまっすぐに向けられ、包みこまれる心地よさを知ってしまったら、惹かれていくのに時間はかからなかった。  自分にはもったいないくらいの、優しくて甘やかし上手な年下の恋人……。 「いくらなんでも撮りすぎじゃない?」  気がつくと、その恋人がすぐ傍らに来てクスクスと笑っていた。  ダイニングテーブルだけでは飽き足らず、如月は撮影場所をリビングのローテーブルやソファー、出窓と部屋のあちこちに移していた。角度を変え、光の当たり具合や添える小物などを変えて熱心にカメラを向けるうち、いつのまにかかなりの時間が経過していたようである。ふと見れば、ダイニングテーブルには湯気を立てるカップとケーキ皿、フォーク、包丁が用意されていた。

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