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              「あれ、クラークさん?」 「あ、気が付かれたようですね。そのままの状態で構いませんので、少し説明させて下さい」 「はい、分かりました……。あの、憑りついていた悪魔はいなくなったんでしょうか?」 「いいえ、まだいなくなっていません。実はずいぶんと手こずっていまして。私の手に余るようですので、これから別の人間に引き継ぎますね。とても力があって信頼に足る人間なので、ご安心ください」  初めは手こずっていると聞いて不安そうになっていたようだが、ジャックスの丁寧な説明で納得したのか、その男は頷いた。  その営業トークなるものの手際のよさは、先ほどジングに脅迫してきたのと同じ人物のものとは思えない。 ちなみに、脅迫に対して返事をしようにもできないでいるうちに男が目覚めたために、話は一応保留となっている。しかし、無言を肯定と取られたのはほとんど間違いないであろうし、いずれにせよ拒否をするという選択肢はなかった。  ただ、あちらへ帰らずにここへ留まるということは構わないが、それが決してジャックスのものになることとイコールではないということだけは主張しておきたい。  説明を終えたジャックスがどこかへ電話をかけた後、こちらを向いて手招きする時の眩しい笑顔を見て確信する。絶対に勘違いされていると。  悪魔は頭痛とは無縁なのだが、頭痛に近い感覚が生じて溜息をついた。 「何だか悩ましい溜息。色っぽいね」  目がおかしいんじゃないかと言いかけて、今自分はジャックスにとって好ましい姿をしているのだろうと思い当たる。  それならば、いっそ元の姿を晒して嫌ってくれたら自由にしてくれるに違いない。そう思ったが、同時に悪魔らしい悪い考えが芽生えた。  どうせ嫌われるなら、もっと好きにならせた後でもいいんじゃないかと。  その時のジャックスの顔を想像して笑っていると、頬に手を添えられた。 「何だよ」  笑いを引っ込めてジャックスを見ると、思いの外真剣な眼差しを向けられた。 「やっぱり、同胞を傷付けられなくてほっとしているのかと思って」 「えっ」 「ほら、さっきの家で」  そこでようやくジャックスの言わんとすることを察した。  ジャックスは、先ほどいたアンダーソンという男の家で悪魔祓いをしている最中だったはずだが、ジングを誤って呼び出したことで中断した。そればかりでなく、電話をかけて他の人間に任せて出てきた。  ジングが出てきて中断したのは事故みたいなものだが、その後に続行しなかったのは、ジングのためとでも言うのだろうか。  正直同胞にそこまで仲間意識は持っていないが、その気遣いに背中が痒くなったような気がした。 「あ、何か照れてる?」 「照れてねぇ」 「可愛い」  褒めながら頭を撫でられて、今度こそ本気で照れてしまいかける。だが、それも無理がないことだと言い訳がましく思う。  悪魔界の、下級の中の下級として誕生した時点で、貶されることは当たり前だった。褒められたりすることはおろか、外見はもちろんのこと、中身に関しても称賛されたことは一度たりともない。  だから、会って間もないにも関わらず、ジャックスの甘い言葉にあっさり絆されそうになってしまう。  それを慌てて振り払おうとして、不意にジェイマーの言葉が蘇る。 「これから私が送り込む人間のところに行って、精液を絞る取るなりなんなりしてお前の虜にし、その者を我ら悪魔の仲間として連れてくることだ。期限は一ヶ月。それまでに連れて来い」  言葉が耳元で囁かれた気がして、はっと我に返る。  そうだ。嫌われて逃げることばかり考えていたが、もしかして好かれているということはむしろ好機ではないのか。それに、もしエクソシストの元へ送られたのが手違いではなく、敢えて送られたのだとしたら。 「ジング?」  物思いに耽っていたジングの耳に、ジャックスが息を吹きかけるように呼びかけた。 「っ……!?」  驚いて飛び上がると、ジャックスが声を立てて笑う。  それに対して怒鳴りながら、澄み渡った空の元、住宅街を歩いて行く。  寒さや暑さを感じないせいか季節と言うものがよく分からないが、今は夏と呼ばれる時期のようだ。通行人は皆一様に暑さに喘ぎ、涼を求めて噴水の近くへ行ったり、店の中に入ったりしている。  そんな中でも、人通りがまばらな時はさして気に止めなかったが、大通りに出ると、ジングを振り返ったり歓声を上げて近付いてくる者が増えた。  人によって見えたり見えなかったりして、見えてもそれぞれ見え方が違うジングは好奇の的だ。  大抵は一人の人間が寝ている間や、お楽しみの最中にしか現れたことがないため、ここまで騒がれるのは初めてで困惑する。  握手を求められたり、いきなりハグをされたりして目を回していると、ジャックスがぐいと腕を引いて耳打ちしてきた。 「人気がないところまで走ろう」 「あ、ああ」  ジングが頷いて見せると、ジャックスは軽い身のこなしで走り始めた。当然のようにジングと手を繋いだまま。 「おい、手を、離せ」  走りながら振り解こうとするが、人間のくせに馬鹿力で簡単には外れない。その上、外そうと躍起になればなるほど強く握り込まれた。  とうとう根負けして諦めると、褒めるように手の甲を撫でられる。 「もう、いいだろ……」  誰もいない小さな公園に入り、鎖で宙吊りにされた椅子に腰かけて荒く息をつく。人間界のことにはさほど詳しくないために名前が分からない。これは何と言うのだろうか。  座ってゆらゆらと足を動かしているのが楽しくて思わず笑みを浮かべると、隣から視線を感じた。  ジャックスが、何か微笑ましいものでも見守るような顔をしている。悪魔には親というものは存在しないが、もし親がいたらこういうふうに見られていたかもしれない。それぐらい優しい顔つきだった。 「何だよ」  どこか照れ臭いような気持ちで聞くと、ジャックスは柔らかく笑ったまま頭を撫でてきた。 「?」  その行動にどんな意味があるのか分からずに首を傾げると、ジャックスは子供に言い聞かせるように言った。 「これはね、ブランコって言うんだ。向こうにはないんだ?」 「ああ。ないな、こんな面白い物は何一つ」 「悪魔にはいっぱい会ってきたけど、僕は向こうに行ったことがない。向こうはどんなところ?」  問われるままに悪魔界を思い浮かべるも、特色と言えば太陽がない暗闇の世界ということくらいだろうか。あとは、たまに人間界からあちらへ物を持ち込んで来る変わり者がいて、そんな悪魔は人間のような暮らしをあちらでもしている。  しかし、そんな悪魔はあまりいない。ほとんどは人間に悪さをすることを生きがいにして、こちらとあちらを行き来する生活をするだけだ。  そんなことを掻い摘んで説明すると、ジャックスは呆れたような顔をした。 「何と言うか、悪魔はどこまでも悪魔なんだね。悪さをするために生きてる」 「それはそうだ。善行をしたら悪魔ではなくなるからな。堕天使というものを知っているだろう?あれは神に離反した天使だったり、自分の意思を持ったが故に神を崇めなくなった天使だったりするわけだが、天使から悪魔に堕ちることはあっても、その逆は滅多なことではあり得ない。悪魔から天使になるには、ちょっとやそっと善行するだけでは駄目だし、何よりも善行を重ねることで自分の存在意義を否定することになるために、かなりの苦痛を味わうことになると聞いたことがある」 「そうなんだ。天使が悪魔に堕ちるのはよくあることなの?」 「ああ、意外と多いな。今の悪魔の半数近くがそうと言われている。だが、皆堕ちる時に天使だった時の記憶を消されてしまう上に、大抵はすぐに悪魔に馴染んでしまう。不思議なくらいにな」 「どうして堕ちるのは簡単なのに、上へ昇るのは難しいんだろうね」  ふと下に目を向けて、ジャックスには影があって、自分の下には影がないのを見ると、それが答えを表している気がした。 「さあな。それこそ神とやらの思惑だろうな。たぶん、神は潔癖か何かで、悪を決して許さないのだろう。だから、並々ならぬ努力と苦痛を乗り越えた者だけが上へ行けて許される。悪魔の俺が言うのも何だが、もっと救済とやらがあってもいいはずなのにな」  その言葉はずっと自分の心の奥底に眠っていた本心だったのか、暗闇に灯る炎の揺らめきのような静かな強さが込められていて、自分で驚いた。  すると、隣からそっとジャックスの声が降ってきた。 「じゃあさ、もし悪魔をやめられるなら、君は嬉しいの?」 「え?」  思いがけない言葉に顔を上げると、ジャックスは透き通った水面のように美しい目で、ジングの心の底を覗いてきていた。  何故かその目に見られると、嘘がつけないと感じた。 「分からない。でも、こんなに理不尽な存在で居続けなければいけないくらいならば、いっそ」  続きを口にしようとして、結局言葉はそのまま途中で掻き消えた。  今さら神罰が下ることを恐れたのかもしれないし、どう言えば自分の本心を間違いなく伝えられるか、まだ分からなかったからかもしれなかった。  そのまま口を閉ざしたジングを見て、ジャックスは目を細めて小さく言った。 「ごめん。そろそろ僕の家に案内するよ。ついて来て」  そして、ジャックスは背を向けて歩き始める。いつの間にか影が伸び、陽が暮れ始めていた。  

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