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第174話

あの頃の気持ちに (ジュンヤ) その28 店に入ると、今夜は珍しく神崎さんがフロントに出ていた。 「 いらっしゃいませ、今夜はお一人ですか?」 「 いや、後から一人くるから二人だけど、多分もう一人はライブには間に合わない 」 と言いながら、あの子は後ろについて入ってくると思ったら引戸は開かなかった。 「 良かった、ライブの始まりが少し遅れてるので、始める前に一杯シードルワインご馳走しますよ 」 「 シードルって、りんごの?」 「 そうです。シードルでなかなか美味いのがあるので、飲んでいただけますね?」 ウインクしながら俺を席へ座らせると、 「 お待ちくださいね 」 とメニューを置いて離れていった。 俺はそんなにここには通ってないがやっぱりジュンヤの関係ってのが効いてるのか、それにしても少し強引な店長だな。 程なく店長がナフキンと小ぶりな瓶を手にして戻ってきた。 「 グールド リヨン です。 シードルの発祥はフランスのノルマンディ地方と言われていてそこで造られたシードルです。 あと引かない酸味とみずみずしい味わい、後味まですっきりしています。香りも豊かですよ」 なかなか、トークも滑らかでフルートグラスに注いだそいつは薄い琥珀色の泡が立っている。 軽く口をつけると、芳雅なリンゴの香りがふっと鼻腔に入ってきた。 「 酸味がさらっとしていて美味いな、たしかに香りはブドウとはまた違うさわやかな感じがするよ 」 「 そうですか、よかった。 ガレットもお持ちしたのでどうぞ 」 白い皿に乗せられたガレットをテーブルに置いたのは、確か三枝先生の教え子だった渋谷君だ。 人なつこい彼と少し会話を楽しんでいるとにわかにステージが暗くなる。 「 始まりますね、どうかごゆっくり 」 と、いくつか俺の注文を聞いて渋谷君はスッと席を離れる。 若い子の後ろ姿は余分な物が付いてないから綺麗だななんて思ったオヤジ思考に苦笑いする。今から20以上も下の男をものにしようとしてるのに、気合い入れ直ししなきゃな。 ひじをついてステージの方を見やるとちょうどジュンヤが出てきたところだった。 ぎゅっと胸が掴まれたような衝撃とドクンと打つ音が聞こえたような気がした。 こんな気持ちは久しぶり? いや、胸が音を立てるなんて初めてかもしれない。

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