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第5話

鹿野目の言ったように、タクシーはそこからワンメーターほど走ったところで止まった。タクシー代を自分が払ったほうが良いのだろうかと堂嶋が考えている間に、鹿野目がさっさと支払いを済ませ、まるで前からそうだったみたいに困ったように立ち尽くす堂嶋の背中をやや強引に押して、エレベーターに押し込んだ。鹿野目はずっと黙っていて、堂嶋は彼に対して何と言ったらいいのか分からなくて、沈黙は耐えられなかったけれど、今どんな話をすべきか分からなくて、仕方がないから結局黙っていた。沢山色々聞いたような気がするけれど、どれも堂嶋の欲しい答えではなかった。家までついて行けばそこで鹿野目は自分にも分かるように説明してくれるのだろうか、この事の起こりとそしてその顛末を。 「ここです」 5階でエレベーターは止まり、黒い扉の前で鹿野目は立ち止まる。ポケットから家の鍵を取出し、それを差し込み回す。扉を無言で開かれて、堂嶋は鹿野目の後に続いて部屋に入った。白い壁の続く部屋の中は、思ったより清潔であり綺麗に整理されていた。堂嶋が興味本位できょろきょろしながら廊下を歩くのに、鹿野目は少しだけ気をやりながらすたすたと奥まで入るとソファーの上にぼすっと座った。ジャケットを脱いでソファーの端に投げる。堂嶋は部屋の入口に立ったまま、警戒心の低い目で部屋を見渡している。 「へー・・・いいとこに住んでるんだねー鹿野くん、ここ家賃いくらくらい?」 「そんなこと聞きに来たんじゃないでしょ」 「あ、そうだ。ごめんなんか、はは」 無防備にへらへらと堂嶋が笑う。鹿野目がそれを睨むようにすると、やっと事の深刻さに気付いたのか、背筋を正して堂嶋がすっと顔を真顔に戻した。そしてゆっくりとそれを困ったような表情に変えながら、鹿野目の座っているソファーに近づいてくる。 「脅すって言ってたけど鹿野くん。俺、金とかそんなにないよ。あと事務所でもそんな権力持ってないし。何かコネとかもまぁあんまりないし。何かしたい仕事があるんだったら、俺から真中さんに言ってあげてもいいけど・・・」 「キスしてください」 「・・・は?」 また何か聞きなれない単語が堂嶋と鹿野目の間を過って、堂嶋はそれを捕まえ損ねる。ゆっくり視線を鹿野目に戻すと、ソファーに座ったままの鹿野目が、こちらを射抜くような鋭い目で見ている。脅すと確かに一度行った唇で、鹿野目は今度は全然違うことを言った、確かに言った。口の中にたまった唾を飲み込むと、ごくりと喉が鳴った。するとぱっと手首を握られて、はっとすると鹿野目がこちらに手を伸ばして堂嶋の手首を取っているのを視覚的に確認する。慌ててそれを引こうとするが、鹿野目の手の力が強くてびくともしない。さっとまた背筋が寒くなった。一体何を、彼は一体何を求めているのだろう。 「鹿野くん、冗談」 「冗談なんか俺は言いません。良いですよね、それとも俺は飲み屋の見知らぬ女子大生以下ですか」 「・・・いやそういう・・・っていうかあれは事故で」 「じゃあこれも事故で良い」 握られた手がぐっと締まって、思わず堂嶋は身構えた。ぐいとそれを引っ張られてよろける。その堂嶋の肩を掴んで、鹿野目はその唇をあっけなく塞いだ。当たって、離れる。居酒屋で女の子がやったそれより、ずっとずっと不器用なキスだと思った。こんなものキスとも呼べない、ただ本当に唇が当たっただけだ。堂嶋はそのままよろけてフローリングに座り込んで、ぽかんとして鹿野目を見上げた。相変わらず無表情で、何を考えているのか分からない。脅すと確かに言った唇で、今度はキスをしろと迫り、そして本当にキスをしてしまった。ぐっとまた掴まれた手首に力が込められて、痛みが走って堂嶋の眉間に皺が寄る。しかしそれとは全く違う、別人みたいに優しい手のひらが、今度は堂嶋の左の頬を撫でて、堂嶋は混乱したまま鹿野目を見やった。すると鹿野目の表情の変わらない顔が近づいてきて、そのままもう一度唇を塞がれた。鹿野目がぐっと体重をかけてきたせいで、堂嶋はそのまま重心がぐらりと揺れたのを感じた。鹿野目に強引にキスをされて、そのままどうしようもなく体重を支えきれずに後ろ向きに倒れたおかげで、堂嶋は後頭部を強かにフローリングに打ち付けることになった。事の急性さと後頭部から広がる痛みのせいで、堂嶋は目の前が一瞬真っ白になった。 「大丈夫ですか、(さとり)さん」 「・・・あ、うん・・・だいじょうぶ・・・っていうか」 はっとして起き上がろうとすると、左肩を掴まれてそのまま鹿野目にもう一度床に倒される。その動作がいちいち自棄に優しくて、今度は後頭部をフローリングに打たないで済んだ。それなのにまだ目の前は、星が飛んでいるみたいにちかちかする。一体如何なってしまって、こうなっているのだろう。さっきから今までの堂嶋の日常にはあり得なかったことが、そして堂嶋のキャパシティではとても理解のつかないことが、立て続けに起きていて、もう頭が考えるのを放棄したいみたいに痛い。それともやっぱりさっきぶつけたせいなのだろうか。何故彼がそんなことをするのか分からないが、何故か阻止されるので起き上がるのを諦めて、マウントポジションから堂嶋を見下ろす鹿野目と視線を合わせる。鹿野目は相変わらずの無表情で、一体何を考えているのか分からない。その左手が人質みたいに堂嶋の右手首を掴んでいる。 「・・・鹿野くん・・・これは・・・あの、どういう、つもりで?」 「ほんとはキスだけにしとこうと思ったんですけど、悟さん隙ばっかだからつい」 「つい・・・?さとりさん?」 「呼び捨てのほうが良いですか」 ひどく真面目な顔をして、仕事の延長みたいに彼がそう言うので、堂嶋は何が正解か分からなかったが、取り敢えずそれに首を振っておいた。それより処理しなければならない事案は、堂嶋の目の前にあからさまに山積みになっている。堂嶋は物理的な痛みと処理できないことの連続で痛い頭を押さえながら、見下ろしてくる鹿野目の視線から逃れたくて顔を背けた。 「なんで、こんな、俺にキスなんて、なんで」 「そんなこと聞くなんて野暮ですね、さとりさん」 「だってわかんな・・・」 「そんなこと貴方が好きだからに決まっているじゃないですか」 「・・・え?」 一度脅すと呟いた唇で、また鹿野目は平然とそう言ってのけた。聞き返しても鹿野目は全く表情を変えずに、こちらを見ている。思えば鹿野目はいつもそうやって堂嶋の顔を見ていたような気がする。仕事をしている時も、ふっと視線を感じて顔を上げると、机を幾つか挟んだ遠くから、鹿野目がこちらを見ているのと時々目が合った。何か用事でもあるのかと思うとそうではなくて、鹿野目はそれに会釈をするとふっと視線を反らしたりして、でも見ていたことは決して隠そうとはしなかった。 「これからネタ掴んでじわじわ追い込もうと思っていたのに、悟さんほんと脇甘くて助かりました」 「・・・え?え?」 「脅すって言ったでしょう。あの写真、ばらされたくないなら俺の言うこと聞いてください」 「・・・―――」 がんじがらめになった糸が、部分的に繋がる。堂嶋は熱がすっかり通り過ぎた冷えた頭で考えた。考えても勿論、そんなことは分からなかったけれど、それでも考えずにはいられない。突然口を閉じた鹿野目を見上げる。その表情はいつもと同じ、何の感情も見えてこない。それでも鹿野目はその口で好きだと言った、脅すと言ったり好きだと言ったり、一体何なのだろうと思いながら、堂嶋は掴まれたままだった手を引いた。当然みたいに鹿野目がそれにくっついて絡んでいる。 「ちょっと、俺、鹿野くんが何言ってるか、分かんない、んだけど」 「そうですか、結構ストレートに言っていると思うんですけど」 「いや、言い方とかじゃなくて、中身が。兎に角離してくれないかな、それと退いて。俺、帰んなきゃ」 「ノーってことですか」

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