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第10話

「悟さん」 呼ばれてふっと目を開けると、鹿野目がこちらを覗き込んでいるのと近距離で目が合う。ぱちぱちと瞬きをすると、腰がずきんと痛んだ。 「大丈夫ですか、風呂、沸きました。体汚れちゃったんで、入ってください」 「・・・あー・・・うん、ありがとう・・・」 ぼんやりした頭のままで返事をすると、鹿野目がその眉間に皺を寄せて渋い顔をした。堂嶋は彼がどうしてそんな顔をするのか分からない。 「悟さん、ほとんどレイプみたいにした男に対してお礼とか別にいらないと思います」 「はは・・・君はなんていうか・・・変なところ、律儀だな」 笑うとアバラが痛くて、思わず胸を押さえる。それを目を細めて見ていた鹿野目が、堂嶋の二の腕を掴んで立たせる。ふらふらになりながら何とか立ち上がった堂嶋は、鹿野目にほとんど引き摺られるみたいにして、バスルームまで連れて来られた。 「ひとりで入れますか」 「大丈夫、だよ。君は酷いことする割に心配性だな」 ぼんやり立っているだけ堂嶋の肩にかかっているシャツを、ぱっぱと鹿野目が脱がせる。そんなこと別にしなくていいのにと思いながら、堂嶋はしてくれている分は楽なので黙っていた。先刻と違って、何故か全く恥ずかしさが欠片もなかった。 「いいえ、俺は悟さんが思っているよりもっと、酷い奴です」 「・・・どういうこと?」 「早く入ってください」 そう言って肩を後ろから突かれて、やや乱暴にバスルームの中に押し込まれる。優しくしたり突き放したり、そうやって鹿野目は不安定な気持ちを、どうにか自分でコントロールしようとしているように見えた。そしてその決してひとつにおさまらない自分自身ですら上手く扱えない気持ちというのは、多分自分を好きだというそれなのだと、見知らぬバスルームに立ち尽くして、堂嶋はひとりで考えた。あの鉄仮面がそんな、思春期の女の子みたいなことに振り回されているなんて、俄かには信じられないが。ふと見やった鏡の中で、堂嶋は自分が酷く赤い顔をしているのをぼんやりと見ていた。 風呂から上がると、ご丁寧に自分の着ていた服がきちんと畳まれて置いてあった。タオルで頭を拭きながら、それに手を通そうと持ち上げると、隣にも一式服が畳まれて置いてある。多分鹿野目の私服だろう。どちらでも好きな方を着ろと言うことなのか、堂嶋は立ったままふっと笑いを零していた。鹿野目のことは良く分からないが、変なところで妙な気を遣ったりすることもあるんだなと思うと、少しだけ可笑しかった。取り敢えず、自分が着ていた服にそのまま手を通して、堂嶋はバスルームを出た。体まだ痛いところだらけであったが、風呂に入ってさっぱりした分、まだ少しマシになったような気がした。 「鹿野くん、お風呂ありがとう」 部屋に戻ると、鹿野目はソファーの前に座って、雑誌を捲っていた。そうして鹿野目を少し遠くから見ていると、やはり鹿野目は自分の部下で、それ以外ではないと思うのに不思議だった。堂嶋がそう声をかけると、顔を伏せていた鹿野目が動いてふっとこちらを見やってくる。相変わらず、突き刺すような真っ直ぐな視線だった。真っ直ぐすぎて少し怖いくらいだった。鹿野目はすっと立ち上がると、すたすた歩いてきて堂嶋の顔を覗き込むと、ふっと指先だけで頬に触れた。 「・・・大丈夫ですか」 それが余りにも優しい声色だったので、堂嶋はびくっと体を震わせること以外できなかった。熱が耳に集まった気がして、思わず口元をタオルで隠す。また赤くなるなとか何とか言われるかと思ったが、鹿野目を見上げると、いつもの無表情でそのまま堂嶋の隣を過ぎて行き、バスルームへと消えてしまった。堂嶋は黙って、その背中が消えたほうをしばらくは見やっていた (・・・びっくりした) (優しくしたり酷くしたり、忙しいな。鹿野くんは・・・) 遠くで水音がしている。堂嶋はソファーに転がって、うとうとしていた。鹿野目が部屋から消えたことで、堂嶋をここに縛り付けるものが何もなくなった。このまま帰ってもいいのかと思ったけれど、体がだるくて色々考えるのが面倒くさくて、ソファーに転がっていたら、そのまま眠気が襲ってきてうとうととしていた。先刻、そこで行われていたことを、まさか忘れたわけではなかったが、それよりも睡魔が勝ってしまったのだから仕方がない。多分鹿野目が言う、脇が甘いというのはこのことなのだろうとぼんやり思った。そうして現実と夢の間を堂嶋が行ったり来たりしていると、ふと堂嶋が乗っているソファーががつんと蹴られて大きく揺れた。はっとして堂嶋は目を開けると、そこに鹿野目が立っている。 「・・・あー・・・かのくん・・・」 「何やってるんですか、悟さん」 「なに・・・?いや、なんか眠くて・・・今何時?」 「3時です。こんなところで寝てないで早く帰ってください、俺も寝たいんで」 ちっと舌打ちが聞こえてきて、堂嶋は耳を疑った。鹿野目は確かに今、堂嶋に帰宅を促した。あんなに帰りたいと言っても頑として譲らなかったくせに。3時なら勿論電車はないし、タクシーは深夜の割増料金になる。どうせ明日も鹿野目も自分も仕事だ。家に帰っても何があるわけでもない。 「帰る・・・?俺帰らなきゃいけないの・・・?泊めてくれたらいいのに、君のせいでどこもかしこも痛くて」 「なら早く帰った方が身のためだと思いますよ、俺はもう一回くらい構いませんけど」 「・・・君は鬼か・・・」 「鬼ならこんな忠告はしません」 眉間に皺を寄せて、鹿野目は渋い顔をして呟く。確かにそうかと思いながら、堂嶋はゆるゆると起き上がった。床に置きっ放しの鞄を掴む。自棄にそれが肩に重みを伝えてくる。体をあんなに心配してくれる割に、終わったら帰れなんて余りにも一貫性がないし酷い仕打ちなのではないかと思いながら、振り返ると鹿野目がゆっくりついてくるのが分かった。 「じゃあ、帰るよ・・・あ、写真・・・消してくれた?」 「消しました」 自棄に冷徹な声で、鹿野目が答える。先刻好きだと囁いたばかりの唇で、よくもまぁそんなに冷たいことが言えると思いながら、堂嶋は首を傾げた。 「鹿野くん、君、また何か怒ってるのか?」 「早く帰ってください、家で彼女、待ってるんでしょう」 戸口までわざわざ見送ってくれた割に、最後はドアをばたんと閉められて、堂嶋は鹿野目の一体何が本当で何が嘘なのか、分からなくなってしまった。

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