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第17話

定時から3時間はゆうに過ぎていた。事務所の中は所員がまばらにしかいなくなっていて、その時堂嶋は早く切り上げて帰らなかったことを呪った。これだけと思って見たメールがクライエントからのやや面倒くさい注文のメールであり、その資料を集めていたらこんな時間にいつの間にかなっていた。メールを放置して帰るべきだった、また明日おんなじことをするだけの話ではあるが。ちらりと事務所の奥を見やると、少し遠くの位置にある柴田の机は空いていた。柴田は大体毎日残業しているので、堂嶋が先に帰ることが多いのだが、時々それが逆転することがあって、そんな日は自分だけが無駄に仕事をしているみたいで勝手に苦しくなる。はぁと大き目に溜め息を吐いて、パソコンの画面を無意識に睨む。 「堂嶋さん」 ふと顔を上げると鹿野目がデスクの前に立っている。きっちりジャケットを着ていたので、もう帰るのかとふと堂嶋は思った。 「鹿野くん、もう帰るの」 「あ、いえ・・・」 「あ、今日?今日どうだろ・・・俺これ終わりそうにないしなぁ、泊めてくれたらいいけど、君は何の意地なのか絶対泊めてくれないもんなぁ、だったら明日しんどいかも・・・」 言いながらはははと笑うと、鹿野目は無表情の顔をやや厳しくして堂嶋を無言で見下ろしていた。様子が可笑しいことに気付いて、堂嶋は慌てて口角を戻した。 「ど、どうしたの、怖い顔をして」 「いえ、まだ帰りません、これチェックしてください」 「あ・・・あぁ、徳井くんの、君が報告書書いてるんだね・・・」 鹿野目が差し出した報告書を受け取って、堂嶋は俯いたまま汗をかいた。事務所では自分は上司で堂嶋さんなのだと思い直して痛い頭をぽんぽんと叩く。 「あと、別に今日そういうつもりじゃなかったですけど、来てくれるんなら来てもらっても結構です」 「は・・・はは・・・お気遣いどうもありがとう・・・」 「いえ」 厳しい顔をしたまま鹿野目がふっとこちらに半身になる。鹿野目との可笑しな関係がはじまって、2ヶ月は経とうとしていた。はじめのうちは兎に角理不尽に耐えられなくて、色々策を講じてみたけれど、持ち前の流されやすい性格のせいで、回数を重ねるごとに段々と心も体も慣れてきた。鹿野目は相変わらず無表情で射抜くように見つめてきたり、そうかと思えば急に視線を反らしたりするし、好きだと甘く囁いていたかと思えば、あれしろこれしろと命令してきたりもする。言動は不安定なままだったが、そういうものだと思えば、それに焦燥することも少なくなった。慣れれば楽だったが、果たしてこれが正解ということにしておいていいのか、堂嶋には分かっているけれど選べない。突けばきっと堂嶋には不利な理由が沢山出てきそうな鹿野目の中を、堂嶋は探ることを少しだけ恐れている。そして鹿野目もそれを隠そうとしない割には本質には絶対触れない。お互いに分かっているのに、明らかにしないことに意味があるのか分からないが、堂嶋にはそれを暴く勇気がない。そして多分堂嶋が無理にこじ開けない限り、鹿野目は自分でそれを開いて見せたりしない。分かっている。 (今日は、やっぱり、帰ろう) 俯いてパソコンの画面を見ている鹿野目の伸びた背筋を見ながら、堂嶋はひっそりと考えた。 それから一時間ほどパソコンとにらめっこした後、流石に目が痛くなってきて、堂嶋は中途半端にしか終わらなかった作業を中断させて退勤処理をした。そろそろ外の空気も穏やかになってきて久しい、日差しが強くなってくる頃合いではあったが、そうは言っても夜は少し寒い。事務所の中では脱いでいた薄手のカーディガンを肩にかけて、堂嶋は鞄を持って立ち上がった。事務所の中はまだ電気がついており、机にかじりついて残っている所員もいる。それに軽く挨拶をして事務所を出た。節電のせいで電気が消えているエレベーターホールでエレベーターが来るのを待っていると、ベランダに続く扉が不意に開いて、そこから鹿野目が出てきた。手にマルボロの赤箱を持っている。堂嶋は鹿野目に向かって無言で手を上げた。 「お疲れ様です、帰るんですか」 「うん、鹿野くんもはやく帰りなよ」 『悟さん』に対する鹿野目は非常識な態度で、堂嶋のことを上司とも思っていない様子であったが、『堂嶋さん』に対する鹿野目は礼儀正しく、常識を弁えた社会人であることが多かった。いつか給湯室で鹿野目が職場で盛ったりしないと眉を顰めて言ったように、鹿野目は職場では息をひそめるみたいにひっそりと淡々と仕事をしており、堂嶋もそれを心配することもなければ、鹿野目の沈黙した携帯電話の中身を案じることも必要なく、平和であった。余りにも平和だったから、時々堂嶋の方が今は『悟さん』なのか『堂嶋さん』なのか分からないことがあって、鹿野目に険しい顔をされていたりする。 「今日は、来ないんですか」 「うん、ごめん、明日も早いし今日は帰るよ」 「そうですか」 「今週だったら・・・あー、そうだなぁ、土曜日彼女が実家に帰るって言ってたから、土曜日ならいいよ」 「・・・」 「あ、流石に休日まで俺には会いたくないか」 はははと声を上げて堂嶋が笑うと、鹿野目は眉間に皺を寄せた。 「そんなことないです」 「・・・え?」 「そんなこと・・・ない。俺はいつだって・・・―――」 言いかけて鹿野目が言葉を切る。そして何か不味いことでも口走ったように、口を手で覆って視線を反らした。今の関係に落ち着くまで、鹿野目には散々色々言われたけれど、最近とみにこの反応が多くなっていることに、堂嶋は少しだけ気付いていた。以前の鹿野目はもっと真っ直ぐで、反らして欲しいくらいの視線を向けてきていた。今でもその気持ちは真っ直ぐなのだろうけれど、鹿野目はそれを口にするのをこんな風に時々躊躇して、戸惑っているみたいだった。今更照れることなんてないと思いながら、堂嶋はそれを見ながら何故か自分の方が照れているような不思議な気持ちになった。そして目を反らす鹿野目の口を割らせないのは、照れなんていう可愛い感情が働いているだけなわけではないことにも気づいている。 「堂嶋さん、俺がこんなこと言うのは変ですけど」 「なに?」 「ちょっと警戒心なさすぎです。さっきも事務所の中でべらべら喋って、誰かに聞かれたらどうするんですか。貴方もうすぐ結婚するのに」 「あー・・・そうだね、まずいか」 「そうです、俺だって、平気な顔しているように見えるかもしれませんが、これだって一生懸命作って」 「あーそうなの、ごめんね」 笑うと鹿野目ははぁと溜め息を吐くようにして、堂嶋にそっと顔を寄せた。触れるだけのキスが唇に落ちて、すぐに離れる。 「お疲れ様です」 そしてくるりと踵を返して、鹿野目は事務所の扉を開けて中に入って行った。堂嶋は目の前に止まったままのエレベーターを見ながらそれに乗って帰らなければならないと思いながらその日、そこからなかなか動くことが出来なかった。 (相変わらず、あっつい、唇だな)

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